「ぼくは絶対的暴力否定論者だ!」土肥信雄氏20年前のエピソード
「子どもに対する暴力はいけない」――大阪市立桜宮高校での男子生徒の自殺、そして女子柔道選手らによる暴力行為の告発、これらが報道されることで、何やら〈カエルの大合唱〉のように、暴力反対を唱える人たちが増えてきた感がする。これまでは、暴力を体罰にすりかえた〈体罰容認論〉や、〈ビンタ=愛のムチ〉論も耳にする中で、「暴力反対」の声が高まるのはよいことではあるが、一時的な盛り上がりでは、現場を変えていくことはできない。いま〈暴力反対〉を唱える人は、5年後も10年後も、変わらずにその立場を堅持し続けることが必要だ。
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そんな中で、20年以上も前から、あらゆる場面での〈暴力〉を否定し、そのことを生徒たちに公言し、「真の民主主義社会に、〈暴力〉は絶対にあってはならない」と言い続けて来た人物がいる。都立三鷹高校校長在職中から、東京都教育委員会による《言論の自由》を認めない施策に異を唱える土肥信雄氏だ。
――ぼくは、生徒たちにいつも言っていました。「私は体罰を行わない。だから生徒の暴力も認めない。もし、私に対する暴力があれば、厳しい処分と慰謝料の請求もあり得る」と。
慰謝料請求というのは、もちろん生徒を社会の一員として認め、その自覚を促すための発言であろうが、土肥氏がふつうの教育者と違うのは、身のまわりの他の教員の暴力行為も見過ごさず、直接その教員に申し入れをして来たことだ。
――いまから20年ほど前のこと、ぼくが都立小川高校に勤めていたときのことです。その時、ある先生がいわゆる体罰をしていたのです。それで、ぼくはその先生に言いました。「教師が子どもに手をあげることがなぜいけないか、論拠を書いてくるから、それにきちんと反論してくれ。反論できなければ、体罰をやめてほしい」と。ぼくが書いて来たものに対して、その先生は反論できませんでした。そして体罰もしなくなったのです。
土肥氏が、あらゆる場所での〈暴力〉を嫌うのは、幼少期の体験にあるという。土肥氏の父親は、ふだんはそういうことは無いのに、お酒を飲むと妻に対する暴力的行為(DV)があったという。
「まだ小さい子どもからすれば、それは怖かったです。父親がお酒を飲んで帰ってくると、ぼくは姉と2階で息を殺して1階の様子をじっとうかがっていました」
現在、土肥氏は東京都教育委員会を相手に《言論の自由》をめぐって東京高裁で係争中であるが、一連の「体罰・暴力」報道で《言論の自由》との兼ね合いで体罰や暴力についてコメントする識者は少ない。土肥氏は、自らの体験をもとに、暴力をふるわれる者以外に、その悪影響が周囲にも波及することをこう懸念する。
――教師による暴力行為は、その生徒に対する影響だけではなく、まわりの生徒に対する影響のほうがもっと恐ろしいのです。つまり、まわりの生徒にとって、暴力的な教師に対して自由にものが言えなくなる場合が、たいへん多いのです。生徒は、教師のほうが間違っていると考えても、もしそれを言えば、暴力を受けるのではないかという恐怖が、基本的人権として最も大切な《言論の自由》を奪うのであり、歴史的に見ても、治安維持法下の言論弾圧など、暴力的な《言論の自由》の抑圧は、見過ごすことができません。
この土肥氏の指摘は、生徒だけではなく、一般社会での風潮でもある。今回の女子柔道選手らによる暴力行為の告発――すでに園田隆二氏は反省の弁を述べ、監督を辞任している。女子選手らは、まったく正しい行いをしているのだから、名前や顔を出して堂々と不正の告発やさらなる提言をしてよいはずだ。性的被害に遭った女性などとは違い、告発は「本来は、ごく当然の行為」、「多くの柔道関係者が見て見ぬふりをする中での、賞賛されるべき行為」である。それにもかかわらず、どうして「選手らの将来を守るため」に匿名にするのか。ひとつには、将来、今回の告発がマイナスに働くこと、即ち報復を受けることを慮っての配慮であろう。「何か言えば、仕返しされる」――おとなにも見られるこういう構図も私たちは変えていかなくてはならない。
ちなみに、今回、年明けに話を聞いた時、土肥氏は「暴力を生徒にふるわないこと」のメリットについてこんなふうにも話してくれた。
「教師が暴力をふるわないことをふだんから話しておくと、生徒たちは安心していろいろとものを言ってくるんです。そうすると、生徒たちの本音もわかりますし、よい意味でのコミュニケーションがはかれるんですよ」
《言論の自由》との関係で暴力行為に反対する土肥氏は、またこんなことも言う。以下の文章は、上記、小川高校在職中に当時まだ40代の土肥教諭が、生徒に暴力をふるう教師宛てに書いたもの〔以下「土肥レポート」〕である。
「教師は体罰以外にもさまざまな方法で生徒を説諭できるはずである。又教師は専門職である以上生徒を言葉で説得できるだけの論理を持たなければならない。体罰は教師にとってもっとも楽な解決方法であり、明らかに生徒指導に対する研究不足である。体罰による押さえつけは教師として失格であると言わざるを得ない。多くの教師は、体罰以外の方法で、多くの苦労と時間をかけて生徒指導を行っていることを忘れないで欲しいのである」
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桜宮高校での顧問教諭による暴力や全柔連監督の暴力行為告発で世間の耳目を集めている、いわゆる〈体罰〉論争――但し、一部のメディアが教師の暴力を「体罰」と表記する等、誤解もある。
ここで整理しておくと、叩く・蹴る・つかむ等の〈有形力の行使〉は厳密には次の5つに分けて論じることが適当だ。
(1)正当防衛や緊急避難として、教師が生徒を制する行為
これについて、文部科学省の「学校教育法11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方」(2007年2月5日)でも「体罰ではない」旨の見解が示されている。教室内で騒ぐ生徒を「他の生徒の教育を受ける権利(憲法26条)を守るために腕をつかんで連れ出す行為」も、騒いだ生徒が連れ出される際に一時的に肉体的苦痛を覚えたとしても、それはより大きな法益を守る緊急避難行為として体罰には当たらない。
(2)生徒の行為に非があり、それへの懲戒行為(叱ること)として、教師が生徒を叩く行為
これを行き過ぎた懲戒行為として学校教育法11条は禁止している。他に肉体的苦痛を伴う長時間の起立や正座なども「体罰」であり違法である。
(3)生徒が教師の気に障ることを言ったりしたりして、教師が生徒を叩く行為
桜宮高校での顧問教諭の行為がこれに当たる。「バスケ部の練習試合でミスする行為」は競技上達の過程で不可避のことであり、懲戒の対象となることではない。したがって、この手の教師の不機嫌、腹イセ、ムカつき等によるビンタは〈体罰〉ではなく〈暴力〉と呼ぶべきだ。
(4)試合前に生徒を励ますために肩や背中を教師が叩く行為
選手や生徒に暴力をふるう指導者の言い訳として「発奮させるため」「やる気を引き出したかったから」というのがあるが、〈試合前〉に肩口や背中を軽く叩くことと、〈試合後〉に顔面を平手打ちすることとは同一に論じることはできない。
(5)直接的な「有形力の行使」ではないが、たとえば「ノック」「ランニング」「かかり稽古」などを極端に続けさせて生徒を痛めつけるような行為
いわゆる「体罰」の基準では、「掃除当番をさぼった生徒に、次回ひとりでさせる」ようなことは、懲戒行為として認められているが、それが著しく長期にわたるようなものは違法(学校教育法で禁じる体罰)とされる。それと同じように、練習(トレーニング)を装ったシゴキも、暴力やリンチ行為として厳に戒められるべきだ。
いろいろな事例での「線引き」について議論が見られる中で、土肥氏は、ひとつの大切な視点を提起する。引き合いに出されたのは、九州の小学校で小学生が教師の尻を蹴って逃げようとした時に、教師が蹴った子どもを制止した行為等に対する裁判だ。この小学生の男児から起こされた損害賠償請求裁判は、最高裁まで争われ、最高裁の近藤崇晴裁判長は「行為は教育的指導の範囲を逸脱しておらず、体罰ではない」と述べ 、体罰を認定し市に賠償を命じた1、2審判決を破棄し、原告・男児の請求を棄却している(2009年4月28日)。
この事案では、逃げ去ろうとする子どもを制止する時点では、まだ懲戒行為は始まっていない。逃げ去ろうとする子どもをつかまえた上で、口頭で注意をしてその勢いで子どもを叩けば、叩く行為は体罰である。制止する行為は、上の分類では(1)ではないのか。それに対して、土肥氏は次のように言う。
――あの裁判、人によって意見は分かれるかもしれませんが、子どもを制止する行為で、教師は子どもの胸ぐらをつかんでいるんですよね。逃げようとする子どもをつかまえるだけなら、何も胸ぐらをつかむ必要は無いし、大のおとなから胸ぐらをつかまれたら子どもは恐怖に感じるでしょう。つまり、胸ぐらをつかむということは、〈理性的〉な対応ではありませんよ。子どもを制止する場合だって、教師は〈理性的〉であるべきで、感情的になってはいけないのです。
理性的かどうかの判断は、その人間の主観だけではなく、その場に居合わせた人間の判断によるところも大きくなり、かなり難しい判断になるだろうが、いつでも理性的であるべきという土肥氏の提言は重い。過去の報道を見ても「生徒のためを思うあまりに、つい…殴ってしまった」といった弁明を聞くが、この「…思うあまりに、つい…」が理性の“たが”がはずれた瞬間である。
理性による“たが”のはずれた状態でのいわゆる体罰について、40代の土肥氏は〔土肥レポート〕で次のように書いている。
「体罰はほとんどの場合、非常に感情的であり、絶対に傷がつかないと言う認識のもとに体罰が行われている状況ではない。したがって体罰により後遺症が残ったり、あるいは死亡することも十分考えられるのである。その場合その生徒の一生を保障すること即ち責任をとることは不可能である。となれば教育的指導と言えども体罰は許されない。体罰を『愛のムチ』だと言う人がいるが、愛のムチにより死亡した場合、本当に愛のムチと言えるだろうか。生命より尊いものは有り得ない」
残念ながら本来はあってはならない「指導死」という言葉が、かなり一般的になって来た。教師の“指導”によって子どもたちの命が傷つけられ、死に至らしめられる今日の状況を予言するかのような土肥氏の警句だ。
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土肥氏の「暴力否定論」は、単に限られた場面での体罰の是非のみを論じるのではなく、広く個人の尊厳や過去(歴史)への反省、将来に向けて続けられるべき民主主義社会への努力といったものに言及している点で、多くの示唆を私たちに与える。紙幅の都合もあるが、そうした視点からの土肥氏の主張を今から20年前の「土肥レポート」から拾ってみよう(見出しは三上による)。
―私の人権を守ってほしい―
「私自身、自分の基本的人権を守りたいし、守って欲しいと思う。その意味で生徒の人権を守ることが私の人権を守ることにつながると確信している。私は教師の暴力(体罰)を否定するとともに生徒の暴力をも否定するのである」
―体罰の根絶―
「体罰を根絶することが、暴力の無い平和な社会、平和な社会につながると確信している」
―体罰を認めることは戦争を認めること―
「教師の体罰を認めたならば全ての暴力を認めざるを得ない。なぜなら教師は体罰を正しい行為として行っているのであるが、例えば暴力団も彼ら自身は正しい行為として行っているのである。また治安維持法下における警察の拷問も正しい行為として行われていたのであり、体罰を認めたらこのような暴力も認めざるを得なくなるのである。その論理でいけば、結局は戦争も認めざるをえない。なぜなら戦争当事国はそれぞれ自国が正しいと主張するはずだからである」
―法律を無視するのか?―
「もし体罰が教育指導上必要というならば、体罰を禁止している法律を改正するように運動すべきである」
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学校現場等での暴力や体罰をなくすために「土肥レポート」は(1)子どもや親が訴え出ることのできる第三者機関の設置(2)体罰や暴力行為が行われた場合には必ず「それなりの対応」をとること(3)大学などでの教員志望者への啓発を提言しているが、年明けの取材で、こんなエピソードも明かしてくれた。
「暴力がいけないことを、教師は日常的に生徒に真剣に話しておくことは大事です。小川高校時代、暴力行為で指導した生徒がいて、34年間の教師生活の中でただ一人退学させてもよいと思った生徒でした。彼とその母親を呼んで暴力行為の指導していた時のこと、何と急に彼が母親を殴ったからです。なぜ母親を殴ったかは後でわかったのですが、母親が父親の暴力は認めながら、子どもの暴力を否定したからでした。私が彼の母親への暴力行為を見て席を立ったあとで、彼の方からあわてて謝って来たのです。あとで聞くと、彼の暴力行為を知った私が、怒りのあまり顔色を変えたそうなのです…。それで彼は『あ…、まずい。土肥先生を本気で怒らせた』と(笑)。だから、ふだんから何がよくて何が悪いのかを、教師がしっかり話しておいて、その悪い行為、たとえば、その時は生徒の暴力行為でしたが、それについても教師は断固たる態度で接することです。ふだんから暴力がいけないことを言っておけば、教師の意図を生徒はちゃんと理解してくれます」
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先月の取材で、無反省に学校現場で体罰・愛のムチ・暴力が横行すれば、まわりの者の《言論の自由》に悪影響があることについて、記者が「よく言う〈萎縮効果〉ですね?」と水を向けると、土肥氏は、その言葉を使わずに「言論の自由の剥奪」と言い換えた。
いまにして思うと、関係者に知られながら、教師や柔道指導者による暴力について声があがって来なかったのは事実である。それだけではない。社会のあらゆる場面で《言論の自由》が正しく行使されない“沈黙”が観察される。それは言葉を選んだり、言い淀んだりするといった“委縮”したもの言いではなく、土肥氏が言ったような「恐怖が…基本的人権としてもっとも重要な言論の自由を奪う」事態である。
学校現場での《言論の自由》を守るために土肥氏が提訴した裁判――真に民主的な社会を作っていくためにも、この裁判の帰趨を私たちは最後まで見届けたい。
(了)
《判決について》
土肥氏の提起した〈言論の自由〉をめぐる裁判の控訴審判決が、以下の通り言い渡される。
〔日 時〕 2013年2月7日(木) 13時15分より(東京高裁511法廷)
傍聴希望者は、2月7日12時15分に東京高裁に近い日比谷公園内に集まり、そこから裁判所に移動する〔注:傍聴は抽選〕。12時15分に間に合わない傍聴希望者は、直接高等裁判所(地方裁判所と同じ建物)の傍聴席抽選場所に12時55分までに集合のこと。
〔報告会〕 2月7日、判決後14時半より司法記者クラブで記者会見。
その後15時頃より日比谷図書文化館4F小ホールで報告会を行う。
《関連サイト》
◎土肥元校長の裁判を支援する会
《土肥信雄氏へのインタヴュー記事》
【1】都立三鷹高校 現職校長時代のインタヴュー(09年3月)
http://janjan.voicejapan.org/culture/0903/0903209830/1.php
【2】「都教委を〈公開討論〉の場へ」(09年6月)
http://janjan.voicejapan.org/living/0906/0906155123/1.php
《支援集会・裁判関係》
【3】東京・四谷での支援集会(2010年10月2日)
http://www.janjanblog.com/archives/18156
【4】「土肥信雄氏、法廷で意見陳述」(第1回口頭弁論、2009.7.23)
http://janjan.voicejapan.org/living/0907/0907247662/1.php
【5】「連帯を求めて孤立を恐れず~土肥氏の原点~」(第2回口頭弁論、2009.9.10)
http://janjan.voicejapan.org/living/0909/0909120134/1.php
【6】「《言論の自由》は絶対に譲れない」(第3回口頭弁論、2009.11.5)
http://janjan.voicejapan.org/living/0911/0911062762/1.php
【7】法政大学尾木教授、鑑定意見書提出(第6回口頭弁論、2010.5.27)
http://www.janjanblog.com/archives/7367
【8】浪本教授の「教育行政機関と教育機関の区別」(第7回口頭弁論、2010.6.28)
http://www.janjanblog.com/archives/13517
【9】「約130通の陳述書が語る土肥氏の素顔」(2010年9月27日)
http://www.janjanblog.com/archives/17119
【10】『それは密告から始まった』刊行 ~土肥信雄氏の人権宣言~(2011年2月)
http://www.janjanblog.com/archives/30405
【11】「結審の予定が、前日に裁判所より延期連絡」(2011年7月7日)
http://www.janjanblog.com/archives/45392
【12】「裁判長交代により、土肥氏再度意見陳述」(2011年8月25日)
http://www.janjanblog.com/archives/49353
【13】東京地裁判決出る(2012年1月30日)
http://www.janjanblog.com/archives/61543
【14】「負けないよ!」地裁判決にも土肥氏意気盛ん
http://www.janjanblog.com/archives/62825
【15】地裁判決集会に卒業生ら集まる(2012年2月18日)
http://www.janjanblog.com/archives/63681
【16】控訴審、始まる(2012年5月15日)
http://www.janjanblog.com/archives/72078
【17】「言論の自由」をめぐる裁判 控訴審 証人尋問へ(2012年7月10日)
http://www.janjanblog.com/archives/80411
《映画「“私”を生きる」関連記事》
【18】土井敏邦監督作品、1月14日より都内で上映
http://www.janjanblog.com/archives/58836
【19】「“私”を生きる」続映決定!
http://www.janjanblog.com/archives/61079
《裁判制度を考える》
【20】「最高裁による裁判官統制」
http://www.janjanblog.com/archives/25949
《参考記事》
◎「指導死 教師の暴力で子どもを死なせないために」
http://www.janjanblog.com/archives/88807
《体罰をめぐる最高裁判例》
◎平成20(受)981損害賠償請求事件
(平成21年04月28日最高裁判所第三小法廷判決)