【指導死】シンポジウム 11月17日開催 ~大貫隆志氏に聞く~
医師が手術の方法を誤って患者を死に至らしめれば「業務上過失致死罪」に問われる。警察官が職務中に被疑者を死亡させても同様に責任を問われる。刑務所においても、収監者が自殺その他をしないよう万全の体制がとられている。
一方で、近年、「セクハラ」「パワハラ」「過労死」などの言葉も市民権を得つつある。これらの言葉によって、私たちは上司のホメ言葉が女性に対して精神を傷つける行為になること、一定の人間関係(例 上司‐部下)から生まれる暴力的言動が法的な損害賠償の対象にもなり得ることを学ぶことができた。これらは、言葉によって、見えない真実が露わになった例である。
「セクハラ」のように、一見その体裁は他人の人格を暴力的に傷つけているようには映らず、「過労死」のように、責任の一端が見えにくくなっている子どもの自死行為が《指導死》の問題だ。「指導死」は、一部の教育関係者の間ではかなり周知の用語になっているが、一般の人たち、そして、児童、生徒、その保護者などには聞き慣れない言葉(概念)だと思われる。そこで、11月17日の《指導死》シンポジウム開催前に、主催団体である「指導死 親の会」の大貫隆志氏に、「指導死」にまつわる問題について聞いた。(文中敬称略)
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――「指導死」とは、一般には聞きなれない言葉です。この言葉が生まれた経緯はどのようなものですか?
(大貫)《指導死》は、「生徒指導をきっかけ、あるいは原因とした子どもの自殺」を意味します。過労による自殺を広義の「過労死」と呼ぶことにならい、生徒指導による子どもの自殺を《指導死》と呼ぶことにしました。きっかけは2007年の秋に、生徒指導をきっかけに子どもを自殺で失った遺族が集まった際の会話でした。
「自分の子どもの身に何がおきたのか、これをほかの人に説明することでさえ、大変だ」、「子どもが悪いことをしたのだから、自殺をしたとしても仕方がないなどの非難を受ける」、「『いじめによる自殺』は社会的に認知されているが『指導による自殺』は、それがあることさえ知られていない」
まずはこうした実態を広く知ってもらうために、名前をつける必要があるのではないか。そんな経緯から《指導死》の呼び名が生まれ、教育現場での事件・事故を《指導死》という観点からとらえ直す提案を始めました。
――「過労による自殺を広義の〈過労死〉と呼ぶことにならい、生徒指導による子どもの自殺を《指導死》と呼ぶことにする」という視点は、わかりやすいです。「生徒指導による…自殺」の部分、その厳密な定義について教えて頂けますか。
(大貫)次の4つを「指導死」の定義として考えています。
(1)一般に「指導」と理解されている教員の行為により、子どもが精神的あるいは肉体的に追い詰められ、自殺すること。
(2)指導方法として妥当性を欠くと思われるものでも、学校でよく行われる行為であれば「指導」と捉える(些細な行為による停学、連帯責任、長時間の事情聴取・事実確認など)。
(3)自殺の原因が「指導そのもの」や「指導をきっかけとした」と想定できるもの(指導から自殺までの時間が短い場合や、 他の要因を見いだすことがきわめて困難なもの)。
(4)暴力を用いた指導が日本では少なくない。本来「暴行・傷害」と考えるべきだが、広義の「指導死」と捉える場合もある。
この4つのポイントから「指導死」を定義しています。当初は、(4)の暴力を伴うものは想定していなかったのですが、(4)のケースが遺族の間でも《指導死》と呼ぶケースが増えてきましたので、つけ加えました。
――《指導死》という言葉は、まだ完全には社会の中で定着していません。ですから、子どもの自殺でも「いじめ自殺」としてなかなかカウントされないように、《指導死》の件数も、おもてに現れて来にくいです。大貫さんは、この《指導死》の事例(件数)をどのように集めているのでしょうか?
(大貫)神戸を拠点に活動している「全国学校事故・事件を語る会」(以下、「語る会」)は、学校事件・事故で子どもを亡くした遺族や被害者のピアサポートグループです。「語る会」ではこれまでに45件の自殺事件の相談が寄せられました。内訳は、いじめが原因と思われるものが19件、教師の対応が原因と思われるものが18件、いじめと教師の対応両方が原因と思われるのが2件、その他うつ病が原因とみられるもの・未だに原因らしきものが明らかになっていないものが6件です。
この事実だけを見ても、教師、あるいは教師の指導による自殺が少なくないことはおわかりいただけると思います。私は「語る会」の会合に参加するまで、自分の子どものように指導によって自殺する子どもは、例外的な存在だと思っていました。でも、そうでないことを知ってから、ますますこの問題を、社会に問いかけないといけないと考えるようになりました。
――いまの「自分の子どものケースが例外的な存在だと思っていたが、そうでないことを知ってから、《指導死》の問題を、社会に問いかけないといけないと考えるようになった」との思いは、大きな意味があると思います。これまでの「セクハラ」「過労死」「虐待」といった言葉も、何かしらの違和感に気づいた人たちから、そういう言葉(=ものを見る視点)が出て来たからです。
さて、かりに「指導死」なるものの存在を認めたくない人たちがいるとすると、次のような反論も考えられるかもしれません。
「教育上、必要な“指導”をおこなって、それですべての生徒が死を選ぶわけではない。ある自責の念が高じて死を選ぶことは、その子特有の気質である」
(大貫)いじめによる自殺でも、「いじめられた位で自殺するのは、その子が弱いからだ」といった、事実に基づかない、単なる感想レベルの意見がまかり通っています。こうした姿勢が、いじめ自殺の防止を妨げている要因の一つであることは、いじめ問題の専門家の間では常識となっています。
自殺原因を個人に求めることは、本質的な課題を見えにくくすることにつながります。本質的な課題とは、いじめる側の問題です。いじめる側のいじめ行為をいかに抑止するか、ここが重要です。
同じように、指導をきっかけ、あるいは原因とした子どもの自殺が存在するなら、指導のあり方を、丁寧に検証する必要があります。そして、もし原因、またはそれと想像できるものがあれば指導方法を再検討すればいいだけです。「生徒のためを思ってしている行為だから」というのは言い訳になりません。
医療行為を例に考えて見ましょう。医療は当然のことながら、患者の健康の回復を目的に行われます。医学的に正しい行為をとっているのだから、この行為に問題はない。それによって、健康を害するのであれば、それは個人の体質の問題だ、としたら、その考えは通るでしょうか?最も大切な「いのち」の前に、私たちはもっと謙虚に事実を見つめ直すべきだと考えます。
――同感です。特に、「教育」という営みは、教師に絶対的な権限がありますから、それだけに常に子どもへの慈しみや教育的視点があるべきです。ほかにも、「教育上必要な“指導”が、ある子の自殺の要因のひとつにはなるかもしれないが、ほかに9つぐらいの要因があるかもしれないので、教師の“指導”に自殺の責任があるかのような呼称(=指導死)は適切ではない」という反論もあるかもしれません…。
(大貫)そういう意見もあるでしょう。いじめ自殺で言うと「家庭にも問題があったのではないか」というたぐいですね。
子どもの自殺の原因、要因を見極めるには、事実関係の詳細な調査が必要です。しかし多くは、何があったのかも明らかにされず、根拠もないまま「指導に行き過ぎはなかった」と発表されて幕引きされています。
きちんと背景を検証した事例が、いったいいくつあるのでしょうか。《指導死》に関して言えば、私の知る限り一例もありません。この状態で、「指導では子どもは自殺しない」と言い切るのは、(学校関係者らの)願望に過ぎません。事実関係の詳細な調査、そして客観的な分析、いわゆるデータとエビデンスをもとにした考察が必要です。だからこそ、あえて《指導死》という耳ざわりな言葉を用いて、私たちは問題提起をしているのです。
また、「子どもが自殺するような指導は、指導とも呼べないものだ」という意見もあるかと思います。しかし子どもにとって教師は絶対的な権力を持つ存在です。私は、教師の一挙手一投足はすべて「指導」と捉えていいと思っています。たとえ教師の視線一つでも、子どもに十分な影響を与えることができるのですから、教師の皆さんには、そのことを十分に意識して子どもに接していただきたいと思います。
――以前日光東中学で起きた生徒指導中の生徒の自殺で、学校長は「生徒の自殺と指導とに関連は無い」旨の発言を生徒の自殺直後にしています。これも、いま大貫さんがおっしゃった「きちんと背景を検証した事例」にほど遠いケースですね。その《指導死》は、一般にも関心のある問題だと思います。《指導死》をなくす、未然に予防するために、各家庭はどのようなことに気をつければよいでしょうか。
(大貫)《指導死》の背景には、いくつかの共通した生徒指導があります。学校でとるべき対策については、シンポジウムで何点かの提案をしたいと思います。
家庭で、ということになれば、学校で指導を受けたお子さんに対しては、せめて家庭では、子どもを擁護(ようご)する立場で接してほしいと思います。「だめじゃないの!」と追い打ちをかけることは、とても危険です。
そして、「学校は安全な場所、学校に任せておけば大丈夫」という神話を手離す必要があります。これは「学校を疑え」と言っているのではなく、「子どもの安全は、親も含め学校と一緒に作って行く必要がある」ということです。
――「学校は安全な場所、学校に任せておけば大丈夫、という神話」について同感です。先日行われた、あるシンポジウムでも、「教師の、子どもたちに対する言動が時に、粗暴(暴力的)である」といった趣旨の指摘がありました。《指導死》の背景には、一部教師の、子どもたちへの慈しみの気持ちが欠けていること等があると思いますが、いかがでしょうか。
(大貫)私は、ジェントルハートプロジェクトの活動の一環として、小・中・高校でいじめ問題の講演をする機会があります。
私は少し早めに体育館に入らせてもらって、子どもたちがいすを並べる様子などを見せていただいています。そんなときに、先生の大きな声が体育館に響きます。椅子の並べ方を指示する大きな声。子どもの名前を呼び捨てにする大きな声。時には「コラッ!」という大きな声。
椅子がきちんと一直線になっているのか、そこまでこだわらなくてもいいのではないかと思うことも少なくありません。教師の望む結果を、子どもたちに作らせるためにゆとりなく振る舞っているようにも思えてしまうのです。理想に過ぎるかもしれませんが、子どもが自ら学び成長できる環境をつくり、見守ることもできるのではないかと思います。
――たしかに「そんなこと、どうでもいいじゃないか…」と思えることを学校では厳格に指導して、逆に「いじめ」等、学校をあげて対策を講じなければいけないことに教師が無関心・無気力であることがあります。
(大貫)それから、「全国柔道事故被害者の会」翻訳によるイギリス柔道連盟(British Judo Association)の「Safe landings(安全な着地)児童保護の方針・手続き・ガイドライン」では、柔道指導における児童虐待を防ぐガイドラインの一部として〈身体的虐待〉〈性的虐待〉〈心理的虐待〉〈ネグレクト〉などあげています。このうち〈心理的虐待〉として以下の記述があります。
〈心理的虐待〉
「青少年の心の福祉に関して当然与えられるべきケアが持続的に示されない場合、青少年が絶えずどなられたり、脅されたり、なじられたり、いやみを言われたり、非現実的な圧力を受けたりする場合に起こる。過保護によって青少年の社会化を妨げたり、高いパフォーマンスを求めるあまり脅したりする場合もありうる。青少年は自信を失い、引きこもったり、神経質になったりすることがある。柔道の状況では、情緒的虐待は、コーチやボランティアや親が次のようなことをするときに起こりうる。
・公的な場や私的な場で繰り返しネガティブなフィードバックを与える。
・若い選手の進歩への努力を繰り返し無視する。
・若い選手に能力を超えたレベルの成績を繰り返し要求する。
・勝利の価値を強調しすぎる。
・若い選手に、価値がないと感じさせたり、コーチや親、その他の人々の期待を達成した場合にのみ価値があると感じさせる。」
このような具体的な指針が、生徒指導にも求められるのではないかと思います。「教師の良心」レベルではなく、「客観的で明確な基準」です。生徒指導はもうそろそろ、「経験則ベース」ではなく教育学や教育心理学などで培われた「データ&エビデンスベース」になっていっていいのではないかと希望しています。
そしてもう一つ、子どもの安全を守る切り札として「指導の可視化」を強く求めたいと思います。
――今日はシンポジウム前のお忙しい時期にありがとうございました。シンポジウムの盛会、そして《指導死》を切り口に生徒指導のあり方が改善されていくことを期待しています。
(11月12日、都内にて)