「いじめ防止法」:条文に仕掛けられた“時限装置”をめぐって
原発をめぐる官僚と電力業界の内幕を描いた「原発ホワイトアウト」――その小説を書いた現職キャリア官僚(ペンネーム:若杉冽)が毎日新聞の取材にこう答えている。
「特定秘密保護法案に『知る権利や報道に配慮する』との条文がありますね。これで喜んでいるメディアがあるなら、相当おめでたいなあ」「だって、僕らがいろんな法案の説明で議員を説得する時にやる手と同じなんですよ。『配慮』『尊重』『勘案』は独特の官僚語。僕らは事前に『この規定は慎重派の公明党さん用』『この条文は反対野党のねじ伏せ用』と、空手形のような拘束力のない努力規定・条文をカードとして用意しておき、議員の反応を見ながら切っていく。例の条文も、その程度のもの。『配慮をするつもりはない』と言っているのとほとんど同義ですね」(2013年11月19日付 毎日新聞・東京夕刊)
上のインタヴューを読みながら、ふと今年6月に成立した「いじめ防止対策基本法」のことが思い返された。法律成立直前まで、条文は「何人も、児童生徒等をいじめてはならない」(第3条)となっており、それまでの文部科学省の〈いじめ〉の定義(注1)からすれば、そこに【教師による、いじめ】が含まれるのは明らかであった。
(注1) 〈いじめ〉の定義:「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。」
ところが成立した法律の条文を読むと、【教師による、いじめ】は「いじめ防止法」からたくみに除外されており、そこに文部科学省に勤める官僚らの隠れた意図が見て取れた。
そのことを知り合いの教員(40代)に話すと…「それは今に始まったことではない」という。その教員に言わせると「いくつかの教育法規の中には、条文そのものに〈時限装置〉が仕掛けられていて、いざと言うときにはそれが作動して、学校や教育委員会が守られるようになっている」と明かしてくれた。以下は、その教員が教えてくれた…教育法規に仕掛けられた〈時限装置〉の例である。
【1】 学校評議員 (2000〔平成12〕年 学校教育法施行規則一部改正)
〈ひらかれた学校〉の理念の下に、2000年に創設された制度が「学校評議員」制度である(学教施規49条)。これは、学校の職員以外の者で「教育に関する理解及び識見を有するもの」を学校長が推薦し、教育委員会が委嘱し、学校評議員に委嘱された者は「学校運営に関し意見を述べることができる」というものだ。
つまり「学校外」の「教育に関して…識見を有する者」が「学校運営について、意見を述べる」というのだから、この制度によって〈ひらかれた学校〉の理念が実現されて行くのではないかと期待が高まるのも当然だろう。
ところが、この学校評議員は必置(注:必ず置かなければならない)ではなく、条文では「置くことができる」という任意規定になっている。しかも、たとえ学校評議員が置かれたとしても条文には「学校長の求めがあってはじめて意見を述べることが出来る」旨が明記されているのだ。
「仮りにこの制度によって誰かが学校評議員になったとします。その人は、『これで、オレも正面から学校運営に対してモノが言えるぞ!どんどん言ってやる』と思うかもしれません。しかし、そう思った途端、その時限装置が働いて…具体的には、その人のもとに教育委員会の人がやって来て説明するのでしょう。『すみません…ちょっとここの条文見てください。たしかに意見を言うことはできますが、それは校長から求めのあった時だけに限られているんです。だから、校長から意見を求められた時以外は、黙っていてもらえますか?』 この制度が出来ても、PTAの会長を務める保護者に学校評議員をお願いして、学校と懇意のその保護者がPTA会長と学校評議員を兼務、だから実際には何にも変わらないという例がいくらもあります」(前記教員)
【2】 学校運営協議会 (2004〔平成16〕年 地方教育行政法一部改正)
「学校評議員」制度から4年後、〈ひらかれた学校〉の理念の下で今度は「学校運営協議会」制度が、地方教育行政法47条の5に規定される。これは、その学校の所在地の地域住民、そして学校の保護者などによる協議機関である。学校評議員と同様に「必置」ではなく「任意」なのだが、その権限の大きさから、制度発足当時はNHKのニュース解説等でも取り上げられ、大きな話題となった。その権限とは次のようなものである。
「指定学校(三上注:学校運営協議会の置かれた学校のこと)の校長は、当該指定学校の運営に関して、教育課程の編成その他教育委員会規則で定める事項について基本的な方針を作成し、当該指定学校の学校運営協議会の承認を得なければならない」
これ以外にも、学校の運営について学校運営協議会は教育委員会や校長に意見を述べることができるし、学校運営協議会から出された学校職員等の採用に関する意見を「任命権者は……述べられた意見を尊重するものとする」という規定まで条文に並んでいる。
特に、学校長が作成した学校運営の基本方針について、学校運営協議会が「承認を与える」というのは、あたかも学校長の上に学校運営協議会が位置しているような印象もあり、たしかに期待もふくらむ。ところが、この法律にも、ちゃんと時限装置が仕掛けられていた。
【3】 学校運営協議会:条文に仕掛けられた“時限装置”
「学校運営協議会」という制度(法律)に仕掛けられた“時限装置”を紹介する前に、次のような事例を考えてみると、その装置のインパクトもよくわかる――。
ある高校の校則で(喫煙行為などの)不良行為に関する規定として、認められるのは次のうちでどれか――という話を考えてみたい。
例1 不良行為をした者について、学校は退学させることができる。
例2 不良行為をした者について、学校は退学させなくてはならない。
例3 不良行為をしそうな者について、学校は退学させることができる。
例4 不良行為をしそうな者について、学校は退学させなければならない。
校則(きまり)の厳しさは、例1→例4の順に厳しさを増す。例1の場合は、好ましくない行為(不良行為)をしても、「退学させるか、させないか」は、校長の裁量にかかっている(つまり「必ず退学させなくてはいけない」わけではなく、退学させるかどうかは「任意」である)。場合によっては、反省の度合いを考慮して「退学させない」選択肢もあり得る。例2は、ひとたびある行為を「した」以上は、問答無用で退学になる…厳しい規定だ。
ただ、その厳しさも、例3、例4を考えると、例2もまだ優しい。例3、例4は、まだ「ある行為を実際にはしていない」者に対して、一定の処分ができるという校則(きまり)である。
例3の場合は、まだ…不良行為をしていない、「…しそうだ」という段階で生徒を退学にできるという恐ろしい規定だ。さらに…例4に至っては、「不良行為をしそうだ」と予見されるだけで、学校は校則(きまり)によって「退学にしなくてはならない」のである。「学校にとどめておく」という選択肢は学校には無く、これはある種の「恐怖政治」であり、こんなきまりのある学校があれば、そもそも生徒は集まらないだろう。
ところが、上の「例4」と同じ規定が「学校運営協議会」の条文に、こっそりと見ることができる。この制度でいちばん目を引くのは、「学校長が作成した学校運営の基本方針について、地域住民や保護者等から構成される学校運営協議会が承認を与える」というところだが、では…学校長の作成した基本方針に、地域住民や保護者ら(学校運営協議会)がもし「OK」を出さなかったらどうなるのだろうか――。
与えられた宿題を生徒がやって提出しに来ても、担当教員がそれに「OK」を出さなかったら、生徒は泣く泣く宿題を家に持ち帰ってやり直して来るはずだ。それと同じく、学校長が作成して来たレポート(例 学校運営方針)に学校運営協議会が「OK」を出さなかった場合も、学校長はそれを持ち帰って作り直して来るように思われる。だが、実はその時まさに、条文に仕掛けられた“時限装置”が働くのである。
――つまり、校則の話でたとえに出した「例4」レベルの“時限装置”と同じで、校長の作った学校運営方針に「OK」を出さなかった学校運営協議会の委員らは全員“即死”である。
例 不良行為をしそうな者について、学校は退学させなければならない。
この校則と同じ発想の「きまり」が地方教育行政法第47条の5の「7項」には次のような内容が定められている。
例 学校運営協議会の運営によって、学校現場に支障が生じそうな時は、教育委員会は学校運営協議会を解散させなければならない。
まだ「学校現場に支障が生じそうな時は、教育委員会は学校運営協議会を解散させることができる」という任意規定ならわかる。しかし、実際の条文は「現場が混乱しそうであれば、設置者は学校運営協議会を解散しなければならない」という強硬な内容になっている。この規定(時限装置)がある限り、地域住民や保護者から成る学校運営協議会が学校長の作成した運営方針に「NO」を言えるわけがない。言えば「現場に混乱が生じるおそれがある」として、即刻、学校運営協議会は(法律の規定に従って)解散である。
その時、教育委員会の委員らは言うだろう――「いや…私たちは別に解散までして頂こうとは思っていないのですが…なにぶん、法律がそうなっているものですから」
そして、学校運営協議会が実際には「NO」とは言えない事実は伏せられたまま、学校長は得意げに入学式の時などに新入生の親を目の前にして言うのである――「本校は、学校運営協議会のモデル校となっておりまして、学校長の作成した学校運営方針を、地域や保護者のみなさまに承認して頂いているのです! これぞ〈ひらかれた学校〉と言えるでしょう」
【4】 高等教育機関での「アカハラ」の実態
学校教育に関する法令で、今までも【1】~【3】のような“時限装置”が仕掛けられて来たことを考えれば、「いじめ防止法」においても、ひそかに「いじめ」の加害者がその学校の児童・生徒に限定され、【教師による、いじめ】が法律の対象外とされたことは驚くにあたらないかもしれない。
しかし、今回の「いじめ防止法」は、子どもたちの〈いのち〉が保護法益である。学校評議員とか学校運営協議会などのクダラナイ制度は放っておけばよいが、【教師による、いじめ】、そしてそこから発生する子どもたちの自死について、私たちが手をこまねいていてよいはずがない。
〈パワハラ〉や〈セクハラ〉という言葉に並んで、最近では〈アカハラ〉という言葉も一般的になって来た。つまり、アカデミックな大学などの研究機関で見られる、絶対的な上下関係のもとで起こる「ハラスメント」である。
この〈アカハラ〉――およそ「ハラスメント」という言葉以上に、閉鎖的な環境下で熾烈な罵倒やいやがらせが行われ、研究者の卵や大学院生が自ら命を絶つという事例も起きている。
たとえば、2008年8月に、東北大学大学院に在籍する29歳の男性が自殺した。遺族からの要望で内部調査が進められ、男性の研究は博士論文としての水準に到達していたにもかかわらず、指導教官が2年続けての博士論文の受け取り拒否等をしていたことがわかり、不適切な“指導”が男性の自殺の原因になったことが認められた。
同じ年の2008年3月には、京都大学大学院工学研究科の大学院生(29)も自殺している。大学側の調査委員会では「ハラスメントの事実は確認できなかった」というものだったが、遺族によると、大学院生は建築の専攻希望であったがまったく別の分野の研究を強制され精神的に追い詰められて自殺であると訴えている。
20歳を過ぎた大学院生と指導教官との間で〈アカハラ〉があるのなら、20歳以下の学生・生徒・児童に対する〈アカハラ〉もあって当然である。ただ…両者には、その「ハラスメント/いじめ/精神的虐待/いやがらせetc」が見えやすいか、見えにくいか…という決定的な違いがある。
11月18日に文部科学省で行われた記者会見で、「〈指導死〉親の会」代表世話人を務める大貫隆志氏は「生徒指導で、まさか子どもが死ぬはずがないと、一般の人たちはなかなか〈指導死〉という現象を想像することがむずかしいようです」と語った。
それはもっともだ。「安全なはずの学校で…」「それも専門職である教員の指導がもとで…」「子どもたちが、どうして死に至るのか」――想像しにくいのは当然かもしれない。だが…この〈指導がもとで…〉の部分を〈教師による、いじめがもとで〉、〈ハラスメントがもとで…〉と言い換えたらどうだろうか。
大貫氏をはじめ〈指導死〉の遺族らは、一部の教員のふるまいを非常に控えめに「指導による死」と表現しているが、実態をよくよく見ると、〈指導死〉の事案の中には、高等教育機関での「アカハラ」より、もっと陰湿で、もっと卑劣で、もっと幼稚な「教師による、いじめ」「精神的虐待」「腹いせ」「八つ当たり」である事例が相当数、散見される。
【5】 日本語のムズカシサ ―鉄板焼きと手羽焼き―
知り合いの中国人が「日本語はむずかしい」と浮かぬ顔をしていた。何がムズカシイのか尋ねると「〈問題ない〉と〈もったいない〉が区別しにくい」と言う。なるほど、中国の人には、小さい「つ」(促音)が聞き取りにくく言いにくいのかもしれない。先日も、中国人の店員さんが「鉄板焼きのお店」と紹介しているのに、日本人客が「へぇ~、手羽焼きのお店かぁ…トリ料理…オレも好きなんだ~実は」等とやっている。
なるほど――と思い、少し考えてみた。大貫氏は〈過労死〉にヒントを得て〈指導死〉という用語を思いついたと聞くが、〈治療死〉と〈指導死〉の対比はどうだろうか。
医師が患者を助けようと思って治療し、しかし、その治療の仕方が悪くて患者が死んでしまうのが〈治療死〉なら、教師が生徒を更生させようと思って指導し、しかし、その指導の仕方が悪くて死んでしまうのが〈指導死〉だ。共通点は、どちらとも専門性のある職種(医学、教育学)であり、人を相手にする仕事である。どちらも…「センセイ」と呼ばれることも似ている。
相違点もかなりある。医師は、おもに患者の肉体に働きかけ、教師は(いわゆる生徒指導の場合)生徒の精神〔人格〕に働きかける。
医師の働きかけは、投薬もあるが、時に患者の体にメスを入れることもある。教師が生徒を「よくしよう」と思ってする働きかけやその他の動機からされる働きかけは、時に生徒の心を切り刻む。
医師の患者に対する働きかけが適切ではなく、その結果…〈治療死〉という事態を招いてしまった場合、世間では〈治療死〉の言葉は使わない。たいていは「医療過誤」と言い、その適切ではない程度が甚だしい場合は「業務上過失致死罪」として責任を問われる。
片や、〈指導死〉の場合は、その事態が起きても「教育過誤」とは言わない。柔道での“指導”について、ようやく2011年10月に柔道指導者に対する「業務上過失致死罪」の有罪判決が下ったが(注2)、学校現場での〈指導死〉に「業務上過失致死罪」が適用された例はまだ無い。〈治療死〉が法的な罪名で裁かれるなら、〈指導死〉も法的に裁かれるしくみが必要ではないだろうか。治療の場合、患者は医師と病院を選べるが、〈指導死〉事例の場合、多くの子どもたちは義務教育制度のもとで、教師を選べないことを、私たちは銘記すべきである。
(注2)下記《関連記事》〔1〕参照
【6】 「立法趣旨」をよりどころに
今回の「いじめ防止法」に関して、小手先での“条文修正”によって、【教師による、いじめ】を「いじめ防止法」から除外したい勢力があったようだが、現実的には、前回記事で理由を指摘したように、それはかなり無理がある
私たちが今後、【教師による、いじめ】にも同法を適用(準用)していくために、大きなよりどころとなるのが、大学での「法学概論」などで最初に習う…あの「立法趣旨」というものだ。
「廊下で大きな音のする下駄履きを、大学構内で禁止する貼り紙がしてあった。それでは、そこに書かれていないハイヒールは着用を許されているのか?」
古めかしい大学教科書の問題はだいたいこんな内容である。そこに書かれていなくても、下駄履きと同じように大きな足音がして講義の妨げになる履き物があれば、それの着用も好ましくないと考えるのが、「立法趣旨」からの考え方だ。
「いじめ防止法」がその第1条で「いじめが、いじめを受けた児童等の教育を受ける権利を著しく侵害し、その心身の健全な成長及び人格の形成に重大な影響を与えるのみならず、その生命又は身体に重大な危険を生じさせるおそれがあるものであること」を鑑みて同法を制定しているのであれば、「同級生らによる、いじめ」と【教師による、いじめ】とで、ことさら後者のみを法律から除外する必要は無い。
むしろ、【教師による、いじめ】は「同級生らによる、いじめ」以上に重く罰するべきであるし、また高等教育機関での「アカハラ」で自殺者が出ていることからも、高等教育機関以上に、その被害を受ける可能性のある子どもたちに手厚い保護策を講じるべきではないだろうか。たとえば――「いじめ防止法」(13条)では、学校ごとの「いじめ防止」の基本方針策定を義務づけている。その基本方針策定の際に、保護者らが各校と話し合いの場を持ち、〈指導死〉防止の協力体制を個別に作る等、子どもたちを守るために、私たち大人ができることは、まだまだ数多くある。
(了)