「エロ本」でつかまったことありますか? ~《指導死》に関する一考察~
高校時代、クラスメートが「エロ本」でつかまった。学校に彼の愛蔵本を持って来て、運悪く生徒指導の教師の“にもけん”で見つかってしまったのだ。
「マジで勘弁してよ~。親呼び出しで、エロ本は親に返すんだってさ」
呼び出しは、たいてい平日だから来校するのは多くは母親だ。女親にその手の本が返されるということの、各方面への心理的効果はかなりのものだ――。
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実は、私も高校時代、修学旅行でその手の本を級友たちと「すげえ」「おいおい、これこれ!」と感嘆しつつ見ていたことがある。
「おい、はやく次のページ行けよ」「そんなにあわてるなよ、おい、これどうなっているわけ…?え…?」「いいから、あっ、ページが破けるだろ、おまえ手を出すなよ」……現場はある種の狂乱状態であった。
その時、突然、ふすまが開いて、学年主任のN先生が顔を出した。
「やべぇ!」と思うより早く、隣の友人Kは0.3秒ぐらいの早業で、5、6人でのぞき込んでいたグラビア本を、布団の下にすべり込ませた。それはマジシャンがやるような、高速カメラでもとらえ切れない神技だった。
「夕食時間が早くなったから遅れるなよ」
N先生はきわめて事務的にそう声を掛けると、またふすまを閉めて出て行った。
「ふぅ~、あぶなかった、セーフセーフ…」
男子高校生は火照った顔の冷や汗をぬぐいつつ、腹ばいの姿勢をあぐらに変えて、また車座になって飽きることなく例のグラビア本をテキストに“勉強会”を再開した。
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夕食を終え、私たちの班が食器を下げる時、N先生もちょうど食器を返却台に戻すところだった。われわれのほうをチラリと見て、N先生はどうということもなく、つぶやいた。
「面白かったか…?」
そう言われて…「えっ?」と答えに窮していると、「まぁ、せいぜい楽しい思い出を作って…」とニヤリとして、N先生はスリッパをパタパタ言わせながら教員部屋に帰って行く。その後ろ姿は、「エロ本もそれなりに面白いが、オレの教えている教科も、それに劣らず奥が深くてオモシロイぞ」と言っているかのようだった。
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いまは小学校からして、誰かがトランプなどを持って来ると、帰りの会などで延々と教師の説教があるらしい(中には、教師が授業を“さぼる”ために、「授業をつぶして“指導”する」などというケースもあると聞く。「授業をつぶしてまで指導するのは、それだけ大切なことだからデス!」とはある教師の弁だ)。
「学校に、勉強に関係の無いものを持って来ていいんですか~?」
「どうなんですか?…そう、いけませんよね。それが、このクラス、この学校の〈きまり〉ですよね」
「世の中は、みんなが〈きまり〉を守って生活しています。学校でも、みんなが〈きまり〉を守ることで、みんなが安心して生活できます。誰かが〈きまり〉を守らないとどうなりますか…? そうです。クラスはめちゃくちゃになります。今日、勉強に関係ないものを持って来た人は、先生が連絡帳に書きましたから、あしたお母さんのサインをもらって来てください。それでは、ホームルームを終わりにします。」
そうやって〈きまり〉をたてに、「ものごとを深く精緻に考えない」おとなによって、やはり同様に「ものごとを深く精緻に考えない」子どもが作られていく。親も同様だ。
「今日、○○くんは、学校にトランプを持って来ていました。授業に関係ないものは学校に持ってこないというのが本校の〈きまり〉ですので、お家でもよく話をしてください」
そう連絡帳に書かれると、多くの親が「どうも申し訳ございませんでした」と頭を下げてしまう。
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〈きまり〉――学校においては「校則」とか「クラスのルール」といった形で示されるが、社会での「法令」でも「校則」でも、それらについてのきちんとした考察があって、はじめて適正に機能する。「これは、きまり(法律)で決まっていることでして…」、「きまり(校則)なんだから守りなさいよ」式の言い方をする人は、ある種のマインドコントロールにかかっている人と言えるかもしれない。
誰が、何のために〈きまり〉を作るのか?
その〈きまり〉への異議申し立てはできるのか?
〈きまり〉に、罰則をつけることは許されるか?
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【指導死/行き過ぎた生徒指導による子どもの自殺】との関連で問題になるのは、学校で誰かが〈きまり〉を破った時の話だ。そこでの“指導”に、何か問題は無いだろうか。
例1 反省文を書かせる
例2 部活動を謹慎させる、場合によっては、部全体の活動を停止させる(連帯責任)。
例3 学年集会で決意表明をさせる
例4 何かあるたびに、親を呼ぶ
これらに共通しているのは、簡単に言えば、これらの“教育的指導”が子どもたちへの〈イヤガラセ〉になっていることだ。〈イヤガラセ〉という言葉に語弊があれば、〈懲罰/ペナルティー〉と言ってもよい。
そういう〈イヤガラセ〉をする教師側の言い分はだいたいこういうものだ。
「いやだったら、そういう〈きまり〉を破るようなことをしなければいい」
「誰かひとりに甘くしていると全体へのしめしがつかなくなる」
「そもそも、教師も好きでこういうことをやっているのではない」
「本人が、これを機に反省して行動を直してくれることが大事」
しかし、よくよく考えてみると、そういう指導法というのは、畑に近づく野性動物に、電気ショックか何かを与えて、作物に近づかないようにさせるのと同じことだ。
「○○をすると、居残りで反省文10枚だぞ」
「○○をしたら、おまえの所属する部活停止。そんなことになったら、おまえのせいでみんなに迷惑がかかるぞ」
こういう電気ショック(居残りや反省文という肉体的苦痛、友だちに迷惑がかかるのではという精神的苦痛)を予告されて、それにおびえつつ、子どもたちは、ある種の行動を抑制する。
――これが、本当に、「教育」と言えるだろうか。
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この手の“指導”の問題点は、いわゆる刑罰をめぐる2つの考え方を思い返すとわかりやすい。
その一つは、「目には目を」で知られるハンムラビ法典のような《応報刑》思想であり、そして、もう一つは、自らの行為について自発的な反省や悔い改めを待つ《教育刑》思想だ。日本の刑務所は、いちおうタテマエとしては《教育刑》の立場をとっていると聞く。
では、上述・例1~例4のような“指導”は、どうだろうか。
これらの“指導”の問題点は、反省や更生を促すような《教育刑》的体裁をとりながら、家畜に電気ショックを与えて、「それがいやなら田畑に近づくな」と警告を与える《応報刑》の手法を(巧妙に)用いていることだ。
――「悪いと思っているなら、ここで反省文をここで書きなさい」
――「おまえがそういうことをすると、みんなに迷惑がかかるんだぞ」
――「こういうことを知れば、お母さんも悲しむぞ」
これらは、子どもの自発的な立ち直りを促すことにはほど遠く、単に子どもに精神的な苦痛や屈辱感、感じる必要のまったくない自責の念を与えるだけだ。そして、そういう“指導”に眉をひそめる良識あるおとなに対しても、この手のイヤガラセをする教師たちは、それなりのフレーズを用意している。
「こういうことは私たちもしたくはありません。でも、こういうイヤなことも私たち教師の仕事なのです。これまでも、多くの子どもたちが、反省文を書いてその後立ち直ってくれました。今回の子どもたちも、自分のしたことの愚かしさを、いつかはわかってくれるはずです。」
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「君は悪いことをしたのだから、精神的・肉体的苦痛を受けることは仕方ないだろう?それがいやなら、そもそもなんであんなことをしたんだい?」――こういう理屈で、教師たちは「反省文」を書かせ、「決意表明」をさせ、親を呼び出し、子どもの好きな部活動を“自粛”させる。そういう〈イヤガラセ〉は、度が過ぎれば〈精神的なリンチ〉となる。そうした〈精神的リンチ〉が果てしなく学校で特定の子どもに続けられれば、その子の精も根も尽き果ててしまうことは想像に難くない。
〈イヤガラセ〉という言葉を先に〈懲罰/ペナルティー〉と言い換えたが、そもそも教育現場に、そうした《応報刑》の手法を持ち込んでよいものだろうか――。
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ある年配の教師が、若手教員に助言しているのを聞いたことがある。
「子どもたちが、漫画本を学校に持って来たら、教師の負けだと思いなさい。子どもたちは、あなたたちの授業が退屈だから、言わば“退屈しのぎ”に漫画本を持ってくるのです。」
「子どもたちがあなたの授業で居眠りをしたら、それはあなたの授業がツマラナイからです。子どもは純真だから、そして、あなたたち教師を傷つけてはいけないと思うから、『ツマラナイ授業だなぁ』などと口に出して言いません。その代わり、仕方なく寝るのです。本当に面白い授業だったら、子どもたちは部活で疲れていても寝ませんよ。えらそうにツマラナイ授業をして、仕方になく子どもが寝てしまう…そのことの非を問われるべきは、教師ですか、それとも子どもたちですか?」
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教育現場に、《応報刑》の手法を持ち込んでよいか。
――この答えは簡単だ。
(1)一般社会で罰せられる行為(例 器物損壊罪、傷害罪)については、「弁償」「治療費の負担」、「謝罪」など、“応報刑的”に指導してよいだろうし、一定の限度を超えれば、警察その他の公的機関によって、法令に従って処遇してよい。
(2)一般社会で罰せられない行為(例 色つきリップクリーム、パーマ、アメや雑誌の持ち込み、アルバイト、原付免許の取得etc)については、(一般社会で罰せられないのだから)教え諭すことはあっても、反省文を含め一切の罰則(ペナルティー)を課すべきではない。上記、年配の教師の助言ふうに言えば、「生徒が自発的に反省文を書いて来たり、強制を伴わない中で生活を改めたりすれば、教師の勝ち。それが出来なければ、教師の負け」である。
ある野球監督は「〈失敗〉と書いて〈せいちょう〉と読む」と言った。
子どもが、数々の“失敗”をするのは当然のことだ。その“失敗”を口実に、わざとらしい“正論”を吐いて、未来ある子どもたちを痛めつける幼稚な大人が何と多いことだろう。
今にして思うと、“禁製品”を見つけると鬼の首を取ったかのように生徒に反省文を強要する幼稚な教師がいる中で、冒頭、N先生の“指導”は何と洗練されていて、スマートだったことかと思う。
子どもたちが無用に傷つけられるのを防ぐために、私たち大人が、もっと教育の本質について、教師の指導のあり方について、精緻に深く考える必要はないだろうか――。
(了)
《備考》
◎「指導死」シンポジウム
―生徒指導による子どもの自殺 「指導死」を改めて考える―
〔日時〕2012年11月17日(土)13時~16時(開場12:30)
〔場所〕人権ライブラリー(人権教育啓発推進センター)
〔申込先〕4104@2nd‐gate.com または FAX 050-3708-0111
〔費用〕無料
〔主催〕指導死 親の会(03-6304-2970)