《人質司法》学校版 ~指導死の背景にあるもの~
「人質司法」という言葉がある。
たとえば、痴漢冤罪事件で、実際にはやっていないが、しかし運悪く容疑をかけられた人が身柄を拘束されて(つまり逮捕されて)、警察署でこう言われる。
「痴漢行為を認めれば、すぐ釈放だよ。どうだ?」
「認めれば5万円の罰金を払って終わり。認めなければ、警察で最長で20日間の拘留。そのあとも送検されて検察でも取調べが続くけど、どうする?」
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痴漢行為をしていないのに逮捕された場合、これはかなり厳しい“究極の選択”だ。やってもいない痴漢行為を認めれば5万円払ってあしたから自由、但し自尊心は相当傷つけられる。もう一方の、やっていないことについて「やっていない」とありのままを言うことは精神的には楽だが、そのために拘留(肉体的苦痛)は長引く。悪くすれば、仕事を失うし(経済的損失)、警察での拘留期間が過ぎても、検察でも「保釈されたければ罪を認めろ」と家に帰れないまま時間が過ぎる。裁判所では「反省の色が無い」と断罪されて、悪くすれば、痴漢で実刑。しかも「人質司法」は警察→検察→裁判所、そして刑務所まで続く。つまり「反省の色が無い、したがって、仮出所は認めない」というわけだ。そこまでの精神力を持っている人が、世の中にいったいどれだけいるだろう…。
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この話を、中学の教師をしている友人と話していたら「そういう話なら、学校でもよくあることだ」と話してくれた。
生徒が何かささいなことをして、その生徒を教師が職員室に呼んで説教をする。その終わりに、教師は「…いいか、わかったか。わかったら行っていいぞ」と言うのだそうである。
そう言われて、多くの中学生は鞄をもって寂しそうに職員室をあとにする。職員室から立ち去るのは、そのままそこに居ても議論は平行線で終わらないし、早く家に帰らないと家族が心配するし、犬の散歩もある。家で宿題もしなくてはいけないし、そういえば今日は塾の申し込みに行かなければならない…ということなのだ。とにかく、早ク帰リタイ…そこにつけこんで教師は「わかったら、行っていいぞ」と持ちかける。
「これは、まさに格子なき人質司法だ」と友人は苦笑した。
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――痴漢行為を認めれば、留置所から出してやる
――俺の言うことを受け入れるのなら、職員室から出て帰宅していいぞ
生徒は純真だから、わざわざ「ぼくは教師であるあなたの言うことに同意はしないが、もう帰る時間だから、帰ります」などとは言わない。
まして「『わかったら行っていい』ってどういうことですか?『罪を認めるんだったら帰っていい』という痴漢冤罪事件での人質司法と同じじゃないですか」等と言える生徒がいるはずもない。
「わかったら、行っていいぞ」と言われれば、ただくやしい気持ちを胸にしまって、心の中で涙をためながら、子どもたちは黙って職員室をあとにするだけだ。
◇
学校での〈人質司法〉には、いくつかバリエーションがあるのだという。
「わかったら行っていいぞ」が1対1の職員室版なら、ホームルーム版もあるらしい。クラスの誰かがシデカシタ場合、担任はクラス全員を残して説教をし、こうモチカケル。
「どうだ、おまえたち、わかったか?あしたからオレの言ったことが守れるなら、今日のホームルームはここで終わりにする」
さらに学年版もある。合唱コンクールでの練習で教師が言う。
「ほら、グダグダやってたら帰れないぞ。今日は全員がきちんと歌えたら解散だからなー」
つまり…
「ここ(留置所)から解放されたかったら、早く罪を認めろ」と同じく
「ここ(体育館)から解放されたかったら、早くきちんと歌え」ということだ。
教師も警察官も、自分の“ノルマ”を手っ取り早く果たすために、相手の身柄(身体の自由)を人質にとって取引をもちかける。
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身体の自由を“人質”に、表面上生徒を屈従させるのが「全員が歌えるようにならないと帰さないぞ」であるなら、精神の自由を“人質”に、おもて向き従わせるのが、反省文の類いだ。
「俺の言うことがわかったら、帰っていいぞ」
これは〈身体の自由〉を“人質”にとるやり方――。
「悪いと思っているのだったら、反省文書いて来い」
これは〈精神の自由〉を“人質”にとるやり方だ――。
こういう“指導”に何の違和感を覚えない場合は、“指導”内容を次のように言い換えていったらどうだろう。
「悪いと思っているのだったら、土下座しろ」
「悪いと思っているのだったら、卒業迄、毎日職員室のトイレ掃除をしろ」
「悪いと思っているのだったら、俺に3万円払え」
「悪いと思っているのだったら、オレの靴をなめろ」
こう言われて、土下座したり、トイレ掃除したり、3万円払ったり、靴をなめたりする人は、おとなであればいないだろう。「悪いと心で思うこと」と、そのあとの行為(土下座、トイレ掃除、3万円支払い、靴なめ)に何の関連性もないからである。土下座であれ、トイレ掃除であれ、反省文であれ、子どもにさせることは、家畜が畑の作物を荒らさないように電気ショックを与えて“学習”させるのと同じである。いやなことを強制させて「いやなら、今後、そういうことはしないようにしろ」と子どもたちに“学習”させるわけだ。その際、〈電気ショック〉の内容が「土下座」「靴なめ」だと、マスコミに取り上げられて困るから、「反省文/反省日記」のたぐいにしておく程度の知恵は教師にもある。「子どもは何度口で同じこと言って聞かせてもわかんね~から、電気ショック与えてやればやんなくなるよ」――こんな発言は絶対できない。だから「反省をうながすために、電気…いや、反省文を書いてもらっています」と言うのである。しかし、本質は変わらない。
本当に、教育のプロ(職業人)として生徒を教え導くのなら、こう言えばいい。
「自分のした行為を悪いと思っているのだったら、君自身であしたからのふるまい方を考えてごらん」
この言い方には、〈精神の自由〉がある。もし、その生徒が、本当に自発的に反省文を書いたり、トイレ掃除のような奉仕活動をしたりするのであれば、それはそれとして教師は認め、にっこり笑ってその生徒を励ましてやればいい。
したがって、「わかったら行っていい」が〈身体の自由〉を人質にとって相手を屈服させるのに対して、「悪いと思っているのだったら、反省文を書け/奉仕活動をせよ」というのは、〈精神の自由〉を人質にとる、かなり低俗で悪質な手法と言えるだろう。
だが、都合の悪いことに…
◎「教育のプロ」を自認するセンセイ方による“指導”である…
◎「ワル」続行宣言ではなく、「反省」文を書かせる“指導”である…
こうした思いから、私たちは、その場面を目にしても、そこで思考停止・判断停止をしてしまう。これは、私たち自身がある種の洗脳やマインドコントロールを受けているということでもある。
子どもたちが必要の無い“指導”から〈死〉に至るのを防ぐために、まずは、私たちおとなが、《精神の自由》を回復して、学校での営みを見守ることが必要ではないだろうか――。
(了)