追い詰められて「死」に至る子どもたち~日光市立東中学校の場合~
白バイやパトカーが一般車両を職務質問しようとして赤色灯を鳴らして追跡し、その結果、一般車両が事故を起こし、運転手や時には歩道の人間が巻き込まれて死に至ることがある〔注1〕。そんな時に、署長クラスの警察官から決まって聞かれるのが、次の言葉だ。
「追跡は、適正な職務であったと考えている」
「適正な職務」か、それとも「行き過ぎた行為」であったかは、死亡事故が起きた直後では、すぐに判断できるはずもない。「……と考えている」といった主観的感想(時に思いこみ)をおおやけの場で述べるだけで、それが立派な公式見解となって周囲を黙らせることが出来るのは、警察そのものが強い捜査権を持っているからだ。同時に、強烈な「タテ社会」である警察内部においても、署長の漏らした主観的感想に、「それは違うでしょう」等とやはり感想を述べられるような勇気ある警察官は居ないようだ。その結果、亡くなった人たちの死が風化し、あいも変わらず「追跡は、適正な…」が繰り返されることになる。
◇
学校現場でもそれと同じセリフを吐き、事故(事件)に蓋(ふた)をしようとする人物がいる。2月、指導中に生徒が学校を抜け出し、線路内に立ち入り電車にはねられて死亡した事故(事件)が栃木県日光市で起きたが、その中学校(日光市立東中学校)の諏訪文敏校長は、事故(事件)の翌日の会見でこう述べた。
「指導の行き過ぎや自殺との因果関係は無い」
――本当に「指導と自殺」との間に因果関係は無いのだろうか。まさに指導中に、生徒一人を残して教員がその場を離れたから、男子生徒は学校を抜け出してしまったのだ。因果関係云々(うんぬん)といった自己弁護めいた発言ではなく「行き過ぎはなかったと思うが、生徒を部屋に一人で残しておいた点など至らない点が少なからずあった」との発言が聞かれなかったのは何とも残念である。
柔道事故シンポジウムで、田中由起子さんは「学校関係者は大切な子どもたちを預かっているという自覚を持ってほしい」と訴えたが〔注2〕、それは諏訪文敏校長にも当てはまるだろう。朝、元気に登校して来た生徒を、充実した授業や教員らの励ましでさらに元気にして家に帰してやるのが、校長はじめ教員の務めではないのだろうか。事故(事件)から1ケ月、学校長の真意を確かめるために、日光市の東中学校を訪ねた(2011年3月2日)。
まず、事故(事件)の概要について、報道されている範囲でまとめておく。同中の中学2年の男子生徒は、2011年2月7日の放課後16時頃、持ち物についての指導を生徒指導主事、学年主任、学級担任らから受けていた。「親は呼ばないでほしい」と同生徒は頼んだが、17時半頃父親への呼び出しが学校からあり、約10分後に父親が来校して教員らとともに男子生徒がいたはずの部屋をのぞくと、生徒はすでにいなかった(注:16時半頃に教師らも相談室から退室し、その後16時50分頃に男子生徒が部屋を出るのが他の生徒から目撃されている)。その後50分ほど経ってから、男子生徒は学校から2キロ離れた線路内で東武日光線の電車にはねられて死亡した。諏訪校長は翌日の全校集会で事故(事件)の経緯を説明し、さらにそのあとの記者会見で「深い反省を促すため、問題があれば両親に来校させる。指導の行き過ぎや死亡との因果関係はない」と発言する。
中学校の校長室で、事故(事件)翌日の「因果関係は無い」という趣旨の発言について、今の時点でもそう考えているのかを尋ねると、一瞬間(ま)を置いて諏訪校長は「今もその判断に変わりはない」と答えた。
男子生徒が指導中に自殺するようなことは、学校関係者も予期していなかったはずだ。だからこそ、生徒を「指導中」にもかかわらず「ひとりにする」ようなことをしたのだろう。それにもかかわらず、その全く予期していなかった突然の事故(事件)の翌日、「指導と事故との因果関係は無い」と、学校長自ら発言するということは、何の確証も無い中で、いかに学校長自らが「自殺への責任追及がわが身に及ぶのを恐れていたのか」を如実に物語ってはいないだろうか――。
あるいは、後日亡くなった生徒の書いたもの(例 日記、メール等)が出て来て、特定教員からの“指導”に強い精神的圧迫を感じていた事実が明らかになれば、「当日の“指導”は行き過ぎていた、適切ではなかった」等の判断になるはずである。そういう検証はきちんとされたのだろうか? その質問に諏訪校長はこう答えた。
「指導に当たった教員には、きちんと聞き取りをして、教育委員会にも報告書をあげています。全校集会をひらいて、保護者にも説明をして、ご理解を頂いています」
諏訪校長は「自殺についてのきちんとした検証は行われたのか?」という問いに上のように答えたが、この短いフレーズには、いくつのも問題点が含まれている。
ひとつは、お決まりの「教員からの聞き取り」である。そのような聞き取りについては、交通事故での警察の対応を考えるとわかりやすい。ある交通事故について、警察(=事故当事者とは無関係の第三者機関)は〈加害者〉からも〈被害者〉からも、そして当時の事情をよく知る〈目撃者〉からも、聞き取りをして「何が起きたのか」を検証する。それは、ごく当たり前の手順なのに、学校関係者(例 校長)は、どういうわけか、全く理解に苦しむことを時としてする――つまり、一方の側からのみ聞き取りをして、それで「体罰は無かった」、「いじめは無かった」「~事実は確認できなかった」「~指導は適正であった」等と発表するのである。こういう公正さを欠くやり方は、とても「検証」とか「報告」などとは呼べないだろう。
もう一つは、教育委員会には【書面】、保護者には【口頭】という〈情報差別〉である〔注3〕。諏訪校長の言う報告書とは、いわゆる「事故報告書」だが、おそらく、そこにはNPO法人「ジェントルハートプロジェクト」の関係者が要望しているような、報告書作成時から関係する保護者も関わること、保護者も意見を書き添えられるような書式にすること等は採り入れられていないであろうし、例の「プライバシー」を盾に内容については部外秘扱いにされるのが関の山である〔注4〕。
3点目は、これも学校関係者がよく口にする「保護者にご理解頂いている」である。たとえば、2月7日の事故(事件)について、全保護者に意見を募れば、それこそさまざまな意見が出るだろう。その上で、学校の対応について8割前後の保護者が「学校の指導法、事後の対応、因果関係は無いとする学校長の発言に納得するか?」という質問に〈はい〉と答えたのであれば、「大半の(多くの)保護者の方にはご理解頂いている」という言い方も許容範囲かもしれない。しかし、「説明会は平日/説明は口頭/保護者から意見も募っていない」状態では、とても「保護者にご理解頂いている」等とは言えないはずだ。
「指導に当たった教員には、きちんと聞き取りをして、教育委員会にも報告書をあげています。全校集会をひらいて、保護者にも説明をして、ご理解を頂いています。」――文字にすれば、わずか70字程度の短いフレーズ、諏訪校長自身は、まさに〈模範的コメント〉としてその場では満足したのかもしれないが、この短い言葉には、現在の学校問題の核心――つまり、事故(事件)について、生徒や保護者らの意見表明の場は設けられず、〈知る権利〉もないがしろにされ、学校の意のままに事件・事故が処理されていくという構図だ。
校長室で、諏訪校長は「親を呼ぶこと」について、「学校と親とが、共通理解をはかって行く上で、学校に来てもらうことは必要」として、その日のうちに保護者を呼ぶことの正当性を主張した。共通理解をはかるにせよ、担任からの電話連絡、担任が生徒の家に出向くこと、日を置いて生徒の気持ちが落ち着き反省の様子が見えてから…等々、「共通理解」のはかり方は、かなり多くの方法があるわけで、生徒が「今日は呼ばないでほしい」と嘆願している中で、「深い反省を促すため、問題があれば両親に来校させる」式に親を呼ぶことに、どんな教育的効果を、諏訪校長は期待していたのだろうか。そういう呼び出しが「中学生・高校生の不安や悩みにも目を向け、児童生徒の内面に対する共感的理解を持って生徒理解を深めること」(後述・文科省『生徒指導提要』より)になっていたのか、甚だ疑問である。
また、諏訪校長は、これまで報道でも伝えられている言葉を改めて口にした。
「これまでの指導方法で、今回のような事故は起きていなかった」
これは「柔道死亡事故」に関する取材で、〈全国柔道事故被害者の会〉の村川副会長が指摘した通りの答え方である〔注5〕。村川副会長は、柔道事故(死亡事故)について、経験則に基づく指導によって多くの柔道・死亡事故が起きていることを指摘したが、それは柔道事故に限った話ではない。
現に、文部科学省は『生徒指導提要』(平成22年3月)でも「特別に支援を必要とする児童生徒に対しては、学校は課題解決に焦点をあてた個別指導及び支援をする必要がある」と注意を喚起している。そして、生徒の持つ課題の背景として、過去の生徒指導書(例 文科省『生徒指導の手引』昭和56年9月)では言及されていない「LD、ADHD、高機能自閉症、アスぺルガー症候群などの発達障害」を挙げている。社会情勢も大きく変わり、生徒の心理的特性も過去と異なる事例が出て来ているから、文部科学省も1年前(平22.3月)に新たに生徒指導に関する指導書を出したのだろう。そういう動きからすれば、繰り返し諏訪校長が述べている「これまで……無かったから」という経験則頼みの発言は、諏訪校長自身がいかに「生徒指導」について無知であるのかを物語っている〔注6〕。
最後に、諏訪文敏校長の「生徒指導と自殺との間に因果関係は無い」との発言に関して、重要な点を指摘しておく。男子生徒の自殺は、「指導」があり、その数日後に起こったものではない。それならば、2つのできごと(指導-自殺)の間の因果関係についてさまざまな見方も可能になるだろう。しかし、日光市立東中学での自殺は、まさに「生徒指導中」に起きたのである。このことの検証やこれからの改善策は、今後じゅうぶんに当事者(学校長、教育委員会、保護者など)の間で考えられる必要がある〔注7〕。性急な幕引きは、子どもたちのためにはならない。
(了)
※記事掲載後、学校の事情について知ると思われる人物から、情報提供とともに次の2点の疑問が寄せられました。この点について、さらに正確な事実をご存知の方は、情報をお寄せ下さい。
〈1〉教員が談話室で16時頃から約30分男子生徒と話をしたということが(学校から)説明されているが、その日は、15時からアイスホッケー部の優勝を祝う全校集会があり、亡くなった男子生徒は、それには出ていない。実は、学校が説明しているより、もっと長い時間の“指導”があったのではないか?
〈2〉亡くなった男子生徒とは別の生徒も、同じ日に16時から“指導”を受けていた。個々のケースを見ると、必ずしも常に親が呼び出さるわけではなく、その判断は、学校の裁量かもしれないが、独断や不公正がなかったかの検証は必要ではないだろうか?「親呼び出し」の学校の裁量だとしても、その裁量の判断基準については、あらかじめ全保護者や全生徒に周知させ、了解してもらう必要はないのか?
※「指導死への提言」に続く⇒ http://www.janjanblog.com/archives/33067
〔注1〕 最近では、暴走族の検挙等では無理に追跡することはせず、複数回にわたってビデオ撮影等をして車両の所有者、運転していた者を割り出す手法が用いられている。
ちなみに、江戸川区立南葛西第二小学校の教諭は、酒気帯び運転がばれるのが怖くてパトカーを振り切ろうとしたが、数台のパトカーに追跡されて「御用」となった。その教員は逮捕されて、自宅で“謹慎”ののち、無事に現場復帰を果たしている(→〔注3〕記事参照)。
〔注2〕 「校長先生をはじめ、すべての先生方には、『かけがえのない子どもたちの命を預かっている』ということを自覚してほしいです」(田中由起子さんの訴え)
http://www.janjanblog.com/archives/29729
〔注3〕 「情報格差(digital divide)」という言葉があるが、学校現場で多く見られるのは、教育委員会宛てには「書面」を作成し、在校生の保護者らには「口頭」で説明を済ますという意図的に格差を生み出す方法(つまりは「差別」である)だ。記者がかつて取材した江戸川区立南葛西第二小学校の場合は、「平日の、保護者らがいちばん家を出にくい夕食の時間帯」をねらって説明会を催す、それも「説明会のお知らせ」(プリント)を直前に配るという用意周到さであった。
http://www.news.janjan.jp/living/0907/0907177237/1.php
〔注4〕 「真実を知りたい~文部科学省に要望・質問書~」
http://www.janjanblog.com/archives/31275
〔注5〕 学校での〈柔道〉死亡事故を考える
「『今までこのように指導して来て、事故は起きなかったから』といった経験則に基づく指導ではいけない」(村川義弘さんの訴え)
http://www.janjanblog.com/archives/4824
〔注6〕 文科省の専門者会議による『児童生徒の教育相談の充実について(報告)』(平19年7月)には次のような記述もある。
「児童生徒の相談内容は、…(中略)…いじめ、友人関係、親子関係、学習関係等多岐にわたっており、近年は発達障害、精神疾患、リストカット等の自傷やその他の問題行動などますます多様な相談に対応する必要性が生じている」
〔注7〕 生徒指導中に、当の生徒が電車に飛び込むという事故(事件)が起きたにも関わらず、「自殺のあった2月7日の前と後とでは、学校の生徒指導に何の変更も無いのか?」と尋ねると、校長は「変更点は無い」と答えた。「生徒一人が亡くなっているのに、学校はその〈死〉から何も学ばないのか、何ら修正点は無いのか?」とさらに問いかけると、諏訪校長はあわてて、「そんなことはない」と前言を取り消した。それならば「生徒が自殺に至った当日の生徒指導のあり方を反省し、今後の指導についての修正案を検討し、それを生徒と保護者に対しても知らせる、つまり共通理解をはかっていく」べきではないのだろうか。