国語教師・大村はま、子どもたちへの接し方
「子どもが、漫画本を学校に持って来たら、教師の負け」
「子どもたちは、授業が退屈だから“退屈しのぎ”に漫画本を持ってくる」
若手教員への助言で、こう言う教師の言葉(→《関連記事》(1)参照)を聞いて面白いと思って話を聞くと、ネタ本があると教えてくれた。国語教師・大村はま(1906~2005)の『教えるということ』だ。読んでみると、今から40年近く前に出された古い本でありながら、現代の混迷した教育界へのよき指針となる内容である。
いまも学校でよく見る光景を思い起こしながら、大村はまなら何と言うか、『教えるということ』から2つほど言葉を拾ってみた――。
〔よく見る光景1〕
いわゆる「禁製品」の持ち込み。アメやおかし、漫画本などを学校に持って来て、それが教師に見つかると「悪いのは、持ち込んだ本人」として指導される。ふだんの勉強でも成績がふるわないと、「ちゃんと勉強してるか? 勉強しないとダメだぞ」と担任からお小言をもらう。つまりは、「勉強する/しないは生徒本人の責任。不勉強は本人の自覚が足りないから」とされる。
「教師の世界はわりあい甘い世界なんです。いえ、わりあいどころか、非常に甘いこわい世界だと思います。なぜこわい世界かといいますと、第一に教室では、自分が一人だということです。それから、生徒は何か悪いことがありますと、自分が悪いと思うようにできているということです。日本にはそういう伝統があるようです。『あなたのお子さんは勉強が足りませんね』と言うと、お母さんがたはたいへん恐縮して、家に帰って子どもに勉強させますから。子どもは、点が悪かったりしようものなら『私の勉強が足りないのだ』と思うようにできていまして、先生のご指導がどうだったかなんて考える、そういう子はいないのです。かりにいたとしても言いません、言っちゃいけないと考えています。こういうふうに一般社会とぜんぜん違って、相手を責めても向こうは怒らないようになっていますから、教師という仕事は非常にこわい仕事です。相手が子どもなので、先生のほうが悪くてもわからないんです。」
(大村はま『教えるということ』共文社P48)
〔よく見る光景2〕
学校で、教師の粗暴な口のきき方を耳にすることがある…。
「私は中学にいましてじっと子どもをみていますと、非常にすぐれたほれぼれとするような力をもった子がいますね。私は時々みんなといっしょにいながら『同い年だったら、この人の友だちになってもらえるかしら』と思うことがあります。たぶんなってもらえないと思うんです。彼はあまりに優秀でして、非常なひらめきをもっていまして、私なんかほんとうにこの人の友だちになんかになれないといったような、してもらえないような気がして心から敬意を表してやまないことがあるんです。教師はやっぱり子どもを尊敬することがたいせつです。さしあたり年齢が小さくて、先に生まれた私が先生になりましたが、子どもの方が私より劣っているなんてことはないんです。劣ってなんかいないで、年齢が小さいだけなんですね。子どもたちを心からたいせつにするというのは、そういうことを考えることです。それは小さい子どももそうではないかと思うんです。実にすぐれたものやいい気持ちをもっていまして、とても自分の相手ではないんです。私の教えている子どもがみんな私よりも上ではなくて、私ぐらいのところでとまったらどうしましょう。たいへんですね。ですから、子どもはほとんど全部教師よりずっとすぐれていると思って間違いなしです。そういう敬意といいますか、尊敬を心から持って、この宝物をたいせつにしたいと思います。年が小さくて子どもっぽいのに気がゆるんで、ことばが乱れたり、態度が乱れたりすることはこわいことだと思います。」
(大村はま『教えるということ』共文社P55~56)
上のふたつのことだけ、すなわち
◎ 子どもたちの悪いところを、子どもたちのせいにしない、
◎ 敬意というか、尊敬の気持ちを持って、宝物をたいせつにする、
この2つを教員が実行するだけで、学校はかなり劇的に変わっていくのではないだろうか――。
(了)