【指導死】シンポジウム ~語られた9人の子どもたちの死~(前)
かつての判例で、小料理屋のお皿に放尿した客の行為を〈器物損壊罪〉に問うた事例がある。「お皿を壊した(器物損壊)」わけではないが、皿としての機能を失わしめたという理由での判決であった。
誰かの持ち物を隠すという行為に、どういう言葉を当てればよいのか。単なる、〈からかい〉なのか、それこそ〈器物損壊〉なのか。人の行為は、内面の心と結びついて容易には黒白をつけにくい。だからこそ、私たちには、真実を見極めるために言葉(ロゴス)が与えられている。
「物を隠す行為」に、私たちが〈からかい〉と〈器物損壊〉の2語しか知らなかったら、多くの事実を見誤るだろう。単なるおふざけと刑法犯罪との間に〈いじめ〉という言葉を持つ時、私たちは目の前の現実を、よりはっきりと知ることができる。
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「子どもが悪いことをしたから指導した」――この一見単純な教師のふるまいについて、深く考えさせられるシンポジウムが、17日東京都内で開かれた。主催は、教師による“指導”が原因で子どもを自殺で亡くした保護者らが作った「〈指導死〉親の会」。会場では、9人の子どもたちの自殺に至る経緯が遺族らによって語られた。
(1)大貫陵平君(当時13歳、中学2年生)
シンポジウムの冒頭、主催者のひとり大貫隆志さんが2000年9月30日に自殺した次男陵平君(当時13歳・中2)のことを語った。前日の29日、陵平君は、学校で「アメを食べていた」ことを12人の教師からほかの生徒ともに1時間半にわたって“指導”され、さらに反省文を書くこと、学年集会で決意表明すること等も教師から指示される。翌日夜、予期せぬ形で担任から母親に電話が入り、お菓子の件、決意表明のこと、保護者が学校に呼ばれること等が伝えられ、その電話から40分後、陵平君は自宅マンションから飛び降りた。
「その時、家にいた長男の言葉によると、エアガンを撃ったような音がしたそうです。」
「はじめ、私は陵平が自ら死を選んだことを責めていました。しかし、時間が経つうちに、陵平は生きようとしたのではないか、その生きようとした陵平を、何かが死へと追いやったのではないかと考えるようになりました。やがて、当初は珍しいケースと思っていた子どもの自殺も、調べてみると次から次へと亡くなっていることを知らされ、何とかしなければならないと思うようになったのが、〈指導死〉に関する活動のきっかけです」
(2)今野匠さん(当時高校2年・16歳)
次いで、大貫氏は北海道の今野匠さんの事例(2008年)を説明した。ことの発端はウェブ上の匠さんによる書き込みである。もともと限られた人間の見るサイトであり翌日早朝には管理者が当該書き込みを削除していたが、それをウェブ上で不特定多数が見る書き込みと教師側が勘違いしたことが、事態をややこしくした。
教師からの“指導”の中で、目を伏せる匠さんに「目を見て話せ」と言い、教師の目を見ると「なんでオレのことをにらみつけるんだ?」と教師は詰問したという。匠さんは停学処分を受け、その後自宅で自殺。のべ6人、3時間にもわたる“指導”が自殺の原因だとして、昨年2011年に両親が提訴。“指導”の中で「おまえの罪は重い」、「アホ」、「死ね」といった言葉が教師から投げかけられたこと、「指導の時に少し大きな声を出したが、そのことは指導の終わりに謝罪した」と教師が法廷で証言したこと等が、裁判の傍聴に行った大貫氏から紹介された。
「法廷で見かけた、その教師は、レスラーのような体つきでした」
(3)Nさん (男子高校生)
次いで、2009年5月、男子生徒が校舎から飛び降りた事例が、父親から紹介された。これは、当日の試験中に不正行為のあった男子生徒に対して、生活指導主任の教師が、男子生徒にホームルームをやっている教室にひとりでかばんを取りに行くよう指示し、その直後に男子生徒が校舎から飛び降りたものである。
その私立高校では、試験の不正行為は「すべての教科が0点になる」とのことで、「不正行為の発覚直後に、当然本人の気持ちは動揺していたはずで、クラスの生徒たちがそろってホームルームをしているところに一人で鞄を取りに生かせることは、教育的な配慮が欠けている」と父親は語った。
「私は息子の名誉のために提訴したが(2011年7月)、学校で子どもが悪いことをして、その結果死んだことについて、多くの遺族は何も語らない。」
「母親は、次男を評して『こんなに優しい子に育ってくれて、私にはもったいない』と言っていました。」
この遺族は、不正行為の発覚後に生徒が自暴自棄にならないように配慮する義務を学校側が怠ったとして2011年7月に提訴、現在東京地裁で裁判が続いている。
(4)山田恭平さん(当時16歳・高校2年生)
3人目の登壇は、愛知県からシンポジウムに参加した山田優美子さん。恭平さんの遺影を傍らに置き、野球部での指導者の暴力について話を始めた。
恭平さんは小学1年生の時から野球を始め、刈谷工業高校でも野球部に入ったが、母親にしばしばこう訴えていたという。
「ほかの野球部員が殴られているのを見るのがつらい」
「自分が、それを止められないのがつらい」
恭平さんは高1年の時に野球部を辞めようとするが、監督から「それは逃げているだけだ」と言われ、辞めるには至らなかった。
高校2年の5月(2011年)、野球部員がトランプをやっているのをみつかり暴行を受ける。
「今日はすごくいやなものを見た。すごくかわいそうだった。ひとりには蹴りも入っていて、すごく可哀そうだった」
これ以降、恭平さんは野球部の練習を休むようになる。
6月5日、この日の野球部の練習試合も恭平さんは休んだ。翌6日、体育教師であるコーチは、校内で恭平さんのことを探す。このコーチのことを恭平さんは母親に常々「あんなに人を殴って楽しいのかなぁ」と語っていた。7日、コーチはほかの野球部員を通じて恭平さんに教官室まで来るように指示。8日、恭平さんは「頭が痛い」と言って学校を休む。
「9日に『今日はどう?』と恭平に声をかけたところ『今日は行ける』とのことでした。しかし、その時、恭平のリュックには練炭が入っていたのです。9日の朝10時に、私宛てに学校から『今日も休んでいる…』との連絡がありました…。」
6月10日、恭平さんの遺体は、廃車置き場の車の中で見つかった。
問題はそれで終わらない。学校は6月30日に教育委員会に報告書を提出していたが、その内容は6月1日に文部科学省から出ていた児童生徒が自殺した場合の措置についての〈通知〉を無視したものであったという。〈通知〉では、すべての教師や関係のある生徒からの聞き取りを指示しているが、学校では一部の教師の聞き取りだけで報告書を作成、教育委員会にあげていた。
2012年1月に遺族が教育委員会に情報開示請求をして報告書の内容を確認したところ、そこには事実ではないことが書かれていたという。
「2歳年上の兄が工業高校に入りたがっていたとか、野球部に入りたがっていたとか…まったく事実ではありませんでした。そのことを学校に伝えると、『事実ではないことの証拠をそろえて、訂正依頼を出してほしい』と言われました。」
調査委員会による調査も「いきなり始まった」。人選も何も知らされず、今年2月に1回目、さらに7月に2回目の「聞き取り」があった。
「そもそも調査委員会委員の持っている資料からして、書いてあることが事実と違うのです」
それを教育委員会に申し入れても「そのへんは調査委員会の人たちもわかってやっていますから大丈夫ですよ」との返答で、「個人がいくら誠意をもって申し入れても、適当に聞き流されてしまう」と、山田さんは教育委員会の対応について実態のずさんさを指摘した。
山田さん夫妻は2回目の聞き取りの前に弁護士を立てて、調査委員会のメンバーについて明らかにするよう求めたが、それも聞き入れられず、現在まで弁護士の調査委員会への同席も拒否されているという。
(5)西尾健司さん(当時16歳・高校1年生)
2001年、兵庫県立伊丹高校1年2学期、12月の期末試験で友人から、答案を見せてほしいと頼まれた健司さんはそれに応じてしまう。頼んだ友人とともに1週間の停学処分を受ける。教師から反省のために日記をつけるように“指導”を受け、12月13日から書き始める。年内で“指導”は終わらず、さらに年明けの3月まで日記をつけ続けるように言われる。3月に校内での喫煙が見つかり、さらに無期停学を言い渡され、家族でのスキー旅行も止めさせられる。無期停学処分を受けた日の夜、親しい友人のすむマンションから飛び降りる。
(※次回、詳報)
(6)安達雄大君(当時14歳・中学2年)
2004年の3月、中学2年の雄大君はようやくその学年が終わることを楽しみにしていた。母親の和美さんは語る。
「雄大は、中2の担任とは中学1年のころから折り合いが悪く嫌っていました。中2になってからも、その担任は、何かあるたびに雄大のことを〈見せしめ〉でよく立たせていたそうです。…シャツが出ている、靴のかかとを踏んでいる、名札がはずれている…と日常のことで、雄大はほかの生徒なら何も注意されないところを、ことさら注意されていました」
ほかにも雄大君が通っていた中学では、アンケートなどで生徒同士の生活面の違反を書かせたり、たとえば部員が買い食いをすると所属する部を活動停止にしたりする等の“指導”を行っていた。
そのような中で、3月10日、雄大君はライターとたばこを持っていたところを担任に見つかり、担任はアルミホイルで目隠しをしてある小部屋に雄大君を連れて行く。当時の中学生の話では「そこに連れて行かれて殴られないことはない」という部屋であったという。その後40~50分にわたり、雄大君は、一緒に吸っていたのは誰かを聞かれ、「たばこのことを両親が知ったら悲しむだろう」、「これから家庭訪問に行く」という内容のことを告げる。その後、トイレに行くと言って、雄大君は校舎4階から飛び降りた。
両親は、2006年8月に学校側に安全配慮義務違反があったとして長崎地裁に提訴、請求そのものは認められなかったが(08年6月)、判決文の中では「教諭の指導がなければ自殺はなかったことは明らか」、「指導と自殺との間には事実的因果関係があると優に認められる」と裁判長は指摘している。
なお、学校は雄大君自殺翌日に記者会見を開き、遺族は「指導に行き過ぎは無かった」との旨の発言を校長がしていることを人から聞かされる。また、裁判の途中で、長崎県は雄大君の死亡原因を「自殺」と修正したが、その原因は〈不明〉としたままだ。
母親の和美さんは、こう言って報告を締めくくった。「自殺原因について、今も変更を求めていますが、県は応じていません。教師の不必要な叱責(しっせき)で子どもが死んでいることを、多くの人に知ってもらいたいです。指導死は、いじめによる子どもの自殺以上に教師が自覚すれば再発を防げるのです。生徒管理は何のためにしているのか、もう一度教育に携わる人たちにはよく考えてもらいたいです。」
(7)金沢昌輝さん(当時17歳・高校2年)
東京農大二高でラグビー部員として活躍が期待されていた昌輝さんは、2002年の3月24日、翌日から学校内合宿が始まる前の日に、自宅で過呼吸の発作を起こす。母親は、息子の過呼吸の発作にうろたえるが、昌輝さんはビニール袋を持って来てほしいと母親に頼み発作をおさめたという。
「その時、息子から救急車を呼ばないでほしいと頼まれたのがおかしいと思いました」
翌日の合宿当日も、昌輝さんはやはり自宅で過呼吸を起こす。母親は前日の過呼吸の様子と合宿の欠席を、担任でもあったラグビー部の監督に伝えるが、「(学校では体調面で)変わったところは無く(これまでと)まったく同じです。(過呼吸が)よくなったらよこしてください」と言われる。昌輝さんは合宿に参加することなくその日に自殺、その後、ラグビー部での健康・安全面を無視した暴力的な指導の実態が明らかになる。
「怪我をしていても休めない、熱があっても立ってラグビー部の練習を見ている、怪我は『走って治せ』と言われる――それが当時は当たり前でした」
それ以前に、高校入学時に保護者らは「学校のやることに口出ししないでほしい」と学校から言われ、強豪として鳴らしていたラグビー部では、部員が見せしめでほかの部員たちの前でしかられたり、親に学校に不都合なことを話したことがわかると懲罰的にきついタックルの練習をさせられたりしていたという。
両親は2003年9月25日に提訴、13回の裁判を経て、05年9月に和解成立。しかし、その和解については苦渋の決断であったことを母親は壇上で語った。
(8)井田将紀さん(当時17歳・高校3年生)
2004年5月、中間試験の最終日、物理のテスト中に、日本史に関するメモを将紀さんが出していたところ、試験監督の教師がそれを見とがめ、昼過ぎから約2時間、5人の教師から“事情聴取”が行われたという。
「“事情聴取”――とてもいやな言葉です。その時は暑い日でしたが、将紀は昼食も飲み物もとらせてもらえなかったそうです。その日は試験の最終日で、将紀も寝不足などで疲れていたと思います。あとで、その部屋での“事情聴取”の再現に私を含めて何人かで立ち会いましたが、こういう扱いを、将紀がひとりで受けていたのかと思うと、たまらない気持ちがしました。」
その日の夕方、将紀さんは自宅近くの立体駐車場から飛び降り死亡。
「息子は『将来はお母さんの面倒をみる』と言ってくれた優しい子でした。『本当に迷惑ばかりかけてごめんね』と私宛てにメールを打ったあとに飛び降りた、その息子の気持ちを考えるとたまりません」
「子どもに対する指導は、たしかに必要でしょう。しかし、指導の〈目的〉と〈手段〉と〈結果〉――そのすべてが妥当なものでなければいけないのです。教師のまちがった“指導”によって、不登校やおとな不信になっている子どもたちも多いのではないでしょうか。」
(9)内海平君(当時11歳・小学6年生)
シンポジウムでは休憩をはさんで、研究者からの発表ということで、教育評論家の武田さち子氏(NPO法人ジェントルハートプロジェクト理事)や愛知県立大学教育福祉部の望月彰教授からの報告があったが、もう一人「全国学校事故・事件を語る会」代表世話人内海千春氏からも提言があった。
内海氏は「どういう方法でアプローチすれば、子どもたちのいじめや自殺が無くなるのかが議論されていない」として、形だけの〈第三者委員会〉や〈カウンセラー〉のあり方について疑問を投げかけた。
「キーワードは〈事実解明〉です。これまでのいじめや自殺で、何があったのか、詳細に解明されたためしがありません。関係者の間から〈再発防止〉などという話が出始めたら、もうそこで話は終わりです。問題は、事実を明らかにするシステムをどう作るかにかかっています」
その内海氏自身、18年前に当時11歳の息子を担任教師の暴力によって亡くしている。シンポジウムで配布された資料(注:「日本の子どもたち」より)には、経緯についてこう記されている。
「1994年9月9日/兵庫県龍野市揖西小学校で、担任教師にぶたれた直後、内海平くん(小6・11)が自殺。同日、平くんが『運動会のポスターの絵、自分で考えたんでもええん』と質問したところ、教師は『3時間目に説明したやろ。何回同じことを言わすねん』と大声で怒鳴り、利き手の左平手で平くんの頭頂部を1回、両頬を往復で1回殴打。教師は一旦、教卓のほうに戻りかけたが、平くんが他の同級生の方を見て照れ笑いを浮かべたのを見て、馬鹿にされたと思い立腹し、『けじめつけんかい』と怒鳴りながら、再び、利き手の左平手で頭頂部を1回、両頬を往復で1回殴打」
◇ ◇ ◇
学校で行われている、子どもへの“指導”――。
「悪いことしたんだから、叱られて当然でしょ?」
「きまりは守んなきゃね」
「そもそも、そういうことをするからいけないんじゃないの?」
こうした言葉をよく耳にするが、実際に(1)~(9)のような事例を聞くと、それらの言葉が、いかに上っ面をなでただけの皮相なものかがわかる。
「悪いこと」とは何か、
「悪いこと」をした子どもに対しては、どんな“指導”も許されるのか、
“指導”と“指導”に名を借りた精神的虐待とを区別する必要は無いのか、
“指導”には、どのような罰則(ペナルティー)ならつけてよいのか、
「そもそも子どもは失敗を重ねて成長していくのではないのか、その導き手として職業〔プロ〕としての教師がいるのではないか?プロによる“指導”で子どもが亡くなったら、その責任は問われるべきではないのか?」
――シンポジウムは、こうした問いを投げかけて幕を閉じた。投げかけられた問いについて私たちが考え抜いて確たる答えを見つけること。それは子どもたちを健やかに育てていくべき、私たちへの〈宿題〉である。
(後)に続く