学校内“虐待”について考える ~教師による〈いじめ〉考~
さきの「指導死」シンポジウムで、愛知県立大学の望月彰教授から、講演の中で「児童虐待防止法では〈児童虐待〉が定義されていること」が紹介され、さらに「(学校での)懲戒と指導と叱責はどう違うのか」との問いかけがあった。
【指導死】の問題で、ややもすると議論が大雑把になり、問題の所在があいまいになるのは、これら「指導」「懲戒」「叱責」といった言葉を含めて、言葉のあいまいさにもよるのではないか――逆にこれらの言葉を精緻(せいち)に定義づけることで、【指導死】や「学校での“虐待”」の実像が正しく把握されることになるのではないかと考える。
〔1〕 「懲戒」と「指導」と「叱責」はどう違うのか?
結論から先に記せば――。
「指導」とは〈教師から児童・生徒への働きかけ〉すべてを言う。さきの「指導死シンポジウム」前のインタヴューで大貫隆志氏は「教師の一挙手一投足はすべて『指導』と捉えていい」という発言があったが、まったく同感である。その「指導」――、世間の言い方にならって「教科指導」「生活指導」という分け方ももちろん可能だ。廊下で会った子どもに励ましの言葉をかけること、職員室で子どもから生活全般について話を聞くこと、そして注意や叱責といった「懲戒」も指導の一部である。
但し、この「懲戒」には注意が必要だ。この言葉は法律用語でもある。学校教育法は次のように規定する。
「校長及び教員は、教育上必要があると認められるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」(学校教育法11条)
上記で言う「文部科学大臣の定めるところにより」というのは、学校教育法施行規則26条を指す。同条は「校長及び教員が児童等に懲戒を加えるに当たっては、児童等の心身の発達に応ずる等教育上必要な配慮をしなければならない」との書き出しの後、次のことを述べている。
○懲戒のうち「退学」「停学」「訓告」の処分は校長だけが行える。
○「停学」処分は、義務教育段階の小中学生には行うことができない。
○「退学」処分は、公立の小中学校と特別支援学校では行うことはできないが、私立や国立の小中学校であれば可能である。
つまり、学校教育法(11条)と学校教育法施行規則(26条)の規定からは、「懲戒」には、校長だけが行える〈処分行為としての懲戒〉と一般の教員も行うことができる、〈日常生活での懲戒(注意を与えたり、叱ったりすること)〉の2種類があるということだ。
以上のことから、学校における「指導」については次のような分類をして議論を進めることが必要だろう。
「指導」…定義:教師から児童・生徒への働きかけ
(1)教科指導
後述のとおり「集団的教科指導」と「個別的教科指導」に分類可能。
(2)生徒指導
ホームルーム、学年集会、全校集会などでの諸連絡や注意など。
(3)個別的生徒指導(→処分としての懲戒)
法律で校長のみに許された「退学処分」「停学処分」「訓告処分」
(4)個別的生徒指導(→日常生活での懲戒)
簡単に言えば、「しかる」行為であり、時に廊下に立たせたり掃除をさせたりといった「懲罰/ペナルティー」を伴うことがある。この行為は、(3)が校長しか行えないのに対して一般の教師も行うことができる。同時に学校教育法11条は、教師が行う懲戒に対して「体罰」を禁止している。立法趣旨からすれば、肉体的苦痛をともなう「体罰」が禁止なら、(著しい)精神的苦痛をともなう“懲戒”も当然禁止されていると理解してよいはずだ。
(5)個別的生徒指導(→説諭など)
「しかる」行為が懲罰(ペナルティー)であったり、時にそれが激しい口調になったりするのに対して、(5)は「教え諭す」という形での指導である。「説諭/教え諭し」であるから、児童・生徒の自発的立ち直りや反省を期待するもので、当然のことながら、強制的な居残り、強制的な反省文、強制的な奉仕活動などは、(5)の範疇(はんちゅう)ではない。
教科指導も「集団的教科指導」が一般的だが、授業でわからないところを質問に来た生徒に対しては「個別的教科指導」になるだろうし、その中で、ふだんの勉強のやり方や生活習慣に対するアドバイス(助言)があれば、それは(5)の説諭を含む個別的教科指導と言える。
世間では、「指導」=「生活指導(生徒指導)」=「懲戒(校長のみが行える〈処分としての懲戒〉と一般の教員も行える〈日常生活での懲戒〉の両方を含む)」といった見解もあるようだが、「指導」とは本来はもっと多岐にわたるべきものではないだろうか。
そして、これまでも述べてきたことだが、「児童・生徒による好ましくない行為(=教育上「指導」の必要な行為)」に対する指導を考える場合には、その「好ましくない行為」の性質を、次の(A)(B)に分ける必要がある。
(A)他の法益(例 他人の権利)を侵害する行為(例 いじめ、器物損壊など)
(B)直接的な他の法益侵害は無いが、放置すると、その不利益が本人に及びやすい行為(例 常習的遅刻、夜ふかし)
そして、(A)については(3)(4)の指導で、(B)については(5)の説諭で指導すべきというのが、これまで繰り返し述べてきた提言である。
上記(1)~(5)、そして(A)(B)の分類に従えば、望月教授がふれた「指導」「懲戒」「叱責」といった言葉の関係は次のように言えるだろう。
(3)(4)の「懲戒」は「指導」のごく一部(部分集合)である。「叱責」は上記分類(4)の一部だが、児童・生徒の行為が(A)の場合には、教師は「叱責」という指導(懲戒)ではなく、「説諭」という指導が期待されるところである。
〔2〕「虐待」との関係
教師から児童・生徒への働きかけが、不適切な形で行われた場合、それは「指導」ではなく、(本来の適正な指導と区別するために)ほかの名称を充てることが望ましい。
その際、参考となるのが、「いじめ」や「虐待」の定義、そして一般の法令だろう。文部科学省の定める「いじめ」の定義は「一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」であるから、〈教師-生徒〉という「一定の人間関係」にあるおとなからの行為も「いじめ」と呼んでもよいはずだ。しかし、各種通知や答申が、「おとなからのいじめ」を想定していないこともあり、別の名称の方が混乱は少ない。
次に、「児童虐待の防止等に関する法律(児童虐待防止法)」の2条は、「親権を行う者」からその親権のもとにいる「18歳に満たない者」への4つの行為を「児童虐待」として定めている。特に注目すべきは、〈暴行〉や〈わいせつな行為〉だけではなく、そうした18歳未満の者への〈暴言〉〈著しく拒絶的な対応〉それに〈他の者による暴行、わいせつな行為、暴言等を制止しないこと〉さらには〈同居するおとなの間での暴力や暴言のたぐい〉も「著しい心理的外傷を与える言動」として「児童虐待」になり得るとしている点だ。
この「いじめ」の定義、そして児童虐待防止法の条文からすれば、教師による行き過ぎた指導は、級友からの「いじめ」、親権者からの「虐待」と並んで、第3の加害行為として、もっと子細に検証されてよいのではないだろうか。
具体的には、
(A)他の法益を侵害する行為(例 いじめ) と
(B)直接的な他の法益侵害は無いが、放置すると、その不利益が本人に及びやすい行為(例 常習的遅刻、係り活動のさぼり)のうち、特に
(B)に対して「説諭」ではなく、「懲戒」(校長による処分行為や教師によって懲罰を与えること)の指導を加えることは、児童・生徒に不必要な精神的苦痛を与えることになるので、それらは「いじめ」や家庭内の「児童虐待」と同列の「精神的虐待」と呼んでよいだろう(「精神的虐待」は「教師によるいじめ」「学校内児童虐待」と同義である)。
上記(B)に対して不適切に「懲戒」の指導が加えられることは、その外部的・形式的な基準で「精神的虐待」とみなしてよい。その成否に「精神的苦痛」の有無は問わないのは、児童・生徒が精神的に未発達な時期であること、そして教育的な見地からである。一方、(A)の「他の法益侵害」を伴う行為、具体的にはほかの児童生徒への「いじめ」や器物損壊行為などに対する指導の場合は、停学処分などの懲戒、あるいは叱責のような懲戒も許される。これらの行為は一般社会でも指弾される行為であり、緊急性もあるので「説諭」といった指導の他に、複数の指導が想定されてよい。但し、この場合も、指導が教育の一環であることを考えれば、当該児童・生徒が一時的に精神的苦痛を感じることはあっても、やはり指導の効果(結果)としては、“晴れやかな反省”“将来に向けての前向きな反省”が必要だろう。
級友などからの〈いじめ〉、親権者からの〈児童虐待〉と比べると、教師による〈精神的虐待〉は、あきらかにその考察はまだ緒に就いたばかりである。引き続き、その“見えにくい虐待”への積極的な議論が望まれる。
(了)