指導死〈反省文〉という名の人権侵害
捜査段階での『取り調べの可視化』が社会の関心を集めている。〈自白〉というのは、人に強制されてするものではないから、〈自白〉が捜査関係者らの脅迫めいた言動によって誘導・強制されたことがわかれば、〈自白〉の証拠能力は裁判で認められない。
まだある。好きな人への〈告白〉もそうだ。自分の心の内を、いつ・誰に・どのような形で伝えるかは、その人の「精神の自由」に関わる大きな問題だ。強制されてするようなことではない。
同じように〈反省〉も、何に対して、どのような形でするかは、個人の「精神の自由」に関わっている。自分のふるまいを省みて、それを悔いたり、恥じたり(あるいは照れたり)、もしくは過去のふるまいを改めるべく前向きに強く心に誓ったり、人の思いはさまざまだ。そして、そういう自分の心の内を、いつ、どういうタイミングでおもてに出すかについても、(他人の権利や法益を著しく侵害している場合を除いては)その人の自由である。
――常態化する〈反省文〉――
ところが、学校現場では、子どもたちに〈反省文〉を書かせることが、“指導”のスタイルとして半ば常態化している。〈反省文〉と言うと、多少教育的にも聞こえるが、その内実は〈念書〉や〈誓約書〉と変わらない。
それも、教師は「教師-生徒」「指導する側-指導される側」「おとな-子ども」という絶対的な優位にある中で〈反省文〉を子どもたちに強制している。そして、書かれた〈反省文〉はロッカーに保管され、それ以後の“再犯”時に、子どもへの心理的圧迫(締めつけ)の道具として使用される。
「おい、おまえはこの間、こうして〈反省文〉を書いて、もうしないと誓っているじゃないか?その決意はどこに行った?」
警察・検察で強制的な誘導のもとに作成された「供述調書」は無効である。人に強制された「恋文」だってその事実がわかれば相手に破かれるに違いない。ならば、学校現場で強制的に書かされる「反省文」についても、私たちはもっと関心を持つ必要はないだろうか。子どもたちの「精神の自由」を侵すような“指導”は、重大な人権侵害ではなかろうか。
――法律による“お墨つき”――
学校教育法11条は、「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」と規定する。
また、同条の「文部科学大臣の定め」に対応する学校教育法施行規則26条は「校長及び教員が児童等に懲戒を加えるに当たっては、児童等の心身の発達に応ずる等教育上必要な配慮をしなければならない」とある。
これらの規定から、「教員には、児童・生徒への懲戒が許されている」、だから「反省文、居残り、部活動の謹慎、奉仕活動、連帯責任なども、懲戒のひとつとして認められる」とする意見もあるようだ。しかし、それは早計である。
――考慮されるべきこと――
子どもたちの、いわゆる“指導”が必要とされるような「好ましくない行為」には、少なくとも2種類ある。
(1)他人の権利を著しく侵害する行為
これは一般社会で言う「器物損壊」「暴行/傷害」が典型だ。授業中の私語や喧騒も、他人の「教育を受ける権利」(憲法26条)を害するものだから、こちらに属する。無視する、物を隠すといった「いじめ」も同様である。
(2)他人の権利は直ちに侵さないが、本人に不利益が及びやすい行為
たとえば、「遅刻癖」は他人の権利は直ちに害するものではないが、それを放置すれば、その不利益は将来、本人に及ぶことは容易に考えられる。したがって、一般社会で遅刻を禁ずる法令は無いが、教育上は何らかの“指導”が必要とされる。その他、小中学生の過度の「化粧」、「買い食い」、「寄り道」、「夜更かし」等も、教師は教育上の“指導”を行うことが多い。どう“指導”するかは後に譲るとして、たしかに、それらの“放置”によって、何らかの不利益が本人に及ぶことは予見可能であるから、教師による“指導”ももっともだろう。
学校現場での「反省文」の強制や、子どもたちの「精神の自由」の問題を考えるときには、上の(1)(2)の区別は大事な前提となる。
――検討されるべき“指導”のあり方――
さて、これまで、「子どもの好ましくない行為への、教師の働きかけ」を「指導」と書いて来たが、「指導」も大別すれば次の2種類があるはずだ。単に「子どもたちに、好ましくない行為が見られる」→「反省文を含めて指導するのは当然だ」式の単純な思考では、本当の意味での教育は期待できない。
【1】 懲戒/罰を与えること
学校教育法11条で、教育上必要と認められる時に、教員に許されているのが、「懲戒」だ。一般社会での「懲戒」とは、戒告・減給・停職・免職などだが、学校での「懲戒」とは、校長のみが行うことのできる訓告・停学・退学(→法的効果を伴う懲戒)と、校長・教員による「叱る、懲罰を与えること」(→法的効果を生じない、日常生活の中での懲戒)とがある。同法11条は、教員等による「叱ること、懲罰を与えること」の際の〈体罰〉を禁止している。
【2】 説諭/教え諭すこと
「説諭(せつゆ)」とは古めかしい言葉だが、この「教え諭(さと)し」には様々ある。たとえば、応接室に児童・生徒を呼んで、日ごろの生活について話を聞き何か助言をするのも、教え諭すことに入るし、授業中、騒がしく私語をくり返す子どもに、「少し静かにしてくれる?」と語りかけること、言葉をかけなくてもニッコリ微笑みかけること、不安を覚える子どもの肩にそっと手を添えること等も、教え諭し(説諭)と考えてよい。
つまり、上の【1】【2】の分類に従えば、児童・生徒が何か好ましくない行為をしたからと言って、「授業中に私語をした者は、教室のうしろに立っていなさい」、「…放課後、居残りをしなさい」、「自分のした行為について反省文を書きなさい」と、すぐに【1】のような〈懲罰/ペナルティー〉を与える必要はないのである。
――導かれる結論――
以上のように、子どもたちの側の「好ましくない行為」と、教師から子どもへの「働きかけ(=指導)」を、それぞれ2種類に大別したが、これらを組み合わせれば、学校現場の“指導”のありようは、次のように類型化できるのではないだろうか。
(1)他人の権利を著しく侵害する行為
これについては、【1】の「懲戒/罰を与える」指導もやむを得ない。もちろん、頻度や程度にもよるし、(1)に対しても慎重な見極めは必要だが、(1)の行為は一般社会においても罰せられるし、いわゆる加害者と被害者との関係において考えれば、まずは加害行為を止めさせることが切迫した課題だからだ。もちろん、そのペナルティーを与えることを通じて、加害者の立場にある子どもが、立ち直りや反省の機会を得られるようにするのは教師の基本的な責務である。
(2)他人の権利は直ちに侵さないが、本人に不利益が及びやすい行為
授業中に居眠りをする、授業に関係ない物を学校に持って来るといった(2)については、あくまでも【2】の範囲で教師は対応すべきだろう。これらの行為は、(1)のような緊急性は無いし、一般社会では多くが容認されていることだからである。
「たまたまアメを持って来てしまいました」「カバンに漫画本を入れていました」「スカートを短くしてはいていました」「頭髪をエルビス・プレスリーふうに固めてみました」――その程度のことで、教師が目をつり上げて「心のゆがみは態度に表れるんだ!」「反省文を書きなさい!」「部活動を自粛しなさい!」と〈ペナルティー/イヤガラセ〉を与えるのは、問題に対して指導の方法をまちがえた人権侵害である。
(2)のたぐいをしてしまった子どもたちに対して、「説諭」によって子どもたちを“指導”できなければ、その教員が〈指導力不足〉教員として、教壇を去ればいいだけのことだ。
――別の問題――
最後に、もう一つ別の重要な問題を指摘しておく。
(1)「いじめ」等の、他人の権利を著しく害する行為
(2)「あめ・漫画本・ライター」などをカバンに入れて登校する行為
これら2種類の行為のうち、緊急性を要するのは(1)の行為だ。しかしながら、学校によっては、(1)については「見て見ぬふり」、(2)については、校門前で生活指導の教師が、生徒のカバンの中を改めたり、ものさしを持って生徒の頭髪の長さやスカート丈を測ったりする等、なぜか“指導”に熱心である。
そして、(1)が放置され、その結果、被害生徒が自殺しても「いじめは無かった」「いじめはあったかもしれないが、実態を把握できない状況だった」「いじめの事実は把握して指導もしていたところだ。しかし、自殺までは予見できなかった」…と様々な釈明(?)を並び立てて学校関係者は責任を回避しようとする。
このような(1)は放置、(2)には熱心という、異常なアンバランスさも、今後是正していく必要がないだろうか。
――子どもたちに、しっかりとした権利保障を!――
警察での「取り調べ」でも、被疑者の権利は保障されている。一般社会で、被疑者の権利が保障されているのなら、学校での“指導”の現場で、子どもたちの権利(特に「精神の自由」)は最大限に、2重3重に保障されるべきである。
他人を傷つけた、他人の権利を侵したというのならまだしも、「○○○がポケットに入っていました」程度なら、たとえ、その「○○○」が不法薬物であったとしても、強制的〈反省文〉は適切ではない。じっくりと子どもの話を聞き、子どもが自発的に望ましい方向に歩めるように、励ましやアドバイス(すなわち「説諭」)をするべきだ。この「自発的」という点こそが重要であり、たとえ法令で禁止されているものが見つかっても、「子どもが自発的に警察関係者のところに出向く」のと「教師が強制的に子どもを警察関係者のもとに連れて行く」のでは、その後の教育的効果は、天と地ほどの差がある。そして、そういう難しい場面でこそ、教師の〈プロ〉としての力量が問われると言ってよい。
「校長、生徒Aのカバンから禁製品が見つかりました」「よし、でかした。反省文だ」 ――程度の差こそあれ、一部の学校では、こうした短絡思考で、子どもたちの“問題行動”を無くそうと躍起になっているのは何とも残念である。
たとえ「好ましくない行為」であるとしても、その「好ましくない」程度はどれほどのものなのか、それに対する“指導”はどうあるべきなのか、例えば『北風と太陽』の寓話(ぐうわ)をもとに私たちはもっと深く考え直すべきだ。そして、場合によっては『指導の可視化』等によって子どもたちの権利を保障していくことが、今後、学校現場でも必要になってくるかもしれない。
(了)
《 備 考 》
◎「指導死」シンポジウム
―生徒指導による子どもの自殺 「指導死」を改めて考える―
〔日時〕2012年11月17日(土)13時~16時(開場12:30)
〔会場〕人権ライブラリー(人権教育啓発推進センター)
所在地:東京都港区芝大門2-10-12 KDX芝大門ビル4階
最寄駅:JR「浜松町駅」、地下鉄「芝公園駅」、「大門駅」から徒歩
〔申込先〕4104@2nd-gate.com またはFAX 050-3708-0111
〔費用〕無料
〔主催〕指導死 親の会(03-6304-2970)
◎「第7回・親の知る権利を求めるシンポジウム」
〔日時〕2012年11月24日(土)13時~16時(開場12:30)
〔会場〕人権ライブラリー(人権教育啓発推進センター)
〔費用〕無料、事前申込不要
〔主催〕NPO法人ジェントルハートプロジェクト