「学校での行き過ぎた指導=精神的虐待」との認識を~ 指導死ゼロへの提言~
一般社会で認められていることを、学校で禁止できるかという問題で引き合いに出されるのが、「部分社会の法理」という考え方だ。一般社会で許されている個人の自由権を制限することは、ふつうに考えれば「憲法違反」となり得るが、特殊な場合(=メンバーが部分社会に属する場合)には違憲にならないことがあるというのが、その骨子だ。
これは学校に限らず、ある特定の目的を持ったコミュニティー(部分社会)で、一般社会よりも厳しく個人の自由を制約する際の論拠にもなっている。
例えば、あるキリスト教の教会で参列者に念仏を唱えるのを自粛してもらう、ある政党で、その政党の掲げる政策への支持を求める、あるいは学校で「授業に関係ないもの」を持って来ないように求めるといったことの“正当性”は、「部分社会の法理」で説明するとわかりやすい。
◇
但し、その「部分社会」からの要請を、部分社会メンバーが守らなかった場合の措置は、かなりデリケートな考察が求められる(注1)。
(注1)あるウェブサイトで「授業中の携帯電話使用に対して一時的な預かり(没収)は問題ないでしょうか?」との質問に対して(1)校則でそうした措置が決められていればOK(2)学校教育法で定められた「懲戒」の範囲内としても認められる、との回答が見受けられたが、ずいぶんと乱暴で無責任な回答である。校則の妥当性(合憲性)、そして、「懲戒」以外の指導のあり方(可能性)、さらに指導を受ける児童・生徒の個々の状況などが具体的に検討されるべきだろう。
「部分社会からの要請を、そのメンバーが守らなかった場合」とは、学校で言えば、「校則で持ち込みが禁止された漫画本等が見つかった場合」などだが、同じ「部分社会」の事例であっても、教会や政党での場合と学校とでは、かなり状況が異なる。その理由は次の3つだ。
(1)教会や政党への帰属が、かなり広範な選択肢があるのに対して、学校(小・中学校)の場合は、義務教育制度にしばられ、その部分社会(小・中学校)に所属する以外の選択肢がきわめて少ないこと。
(2)キリスト教の教会で「念仏を唱えたり、仏教の教義を布教したりするような行為」は、それを認めれば、教会の存続そのものにかかわる。政党で、政党メンバーにその政党の政策案への支持を求めるのも、その政党存続のためには欠かすことができない。
しかし、一部の校則は、教育活動の本質にかかわるものではなく、単に、その校則を守らせたほうが、教師にとって指導しやすいという程度のものでしかない。
(3)同じ「部分社会」としての性格は持っていても、教会や政党と比べて、学校は、その主たる機能が〈教育〉である点、そして部分社会メンバーが発達途上の未成年である点を考えれば、「校則で持ち込みが禁止された漫画本等が見つかった場合」の措置は、懲罰的なもの〔応報刑的視点〕であってはならず、あくまでも教育的でなければならない。
◇
教師による、児童・生徒への指導(私見によれば、これには少なくとも「説諭」と「懲戒」とがある)を考える際に、次の2つの事項についても、私たちは問題を整理しておく必要がある。
ひとつは、〈体罰〉だ。学校教育法11条は、「肉体的苦痛を与えるような懲戒」を〈体罰〉として禁止する。そうだとすれば、当然、立法趣旨として「精神的苦痛を与えるような懲戒」も不可のはずである。特に、教育に従事する者(教師)としては、法律に明文化されていなくても、そのことを意識してふだんの教育活動に当たるべきだ(注2)。
(注2)いささか個人的な想像であるが、かの三鷹高校前校長の土肥信雄氏は、在職中、生徒の遅刻などをかなり厳しく叱った(つまり懲戒を与えた)と聞く。しかし、それによって、叱られた生徒は、精神的苦痛を覚えたかと言えば、そうではなく、土肥氏が指摘する自身の行動についてじゅうぶんに反省できたのではないだろうか。世の中には、「懲戒に精神的苦痛はつきもの」と考える向きもあるようだが、必ずしもそうではないだろう。
もう一つは、文部科学省の定める〈いじめ〉の定義である。それによれば、〈いじめ〉とは「一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的苦痛を感じているもの」となっている(今の「いじめ」の定義では、回数・継続性は関係ない)。「一定の人間関係」にあるクラスメートから、悪意のある言葉を投げかけられて精神的苦痛を生じれば、当然それは〈いじめ〉と認定される。
それならば、「一定の人間関係」――たとえば部活動の先輩からの言動、クラス担任からの言動によって、精神的苦痛を覚えたとすれば、それも〈いじめ〉と認定すべきではないだろうか(但し、日本語の用法として「いじめ」は子ども同士の関係を表すのに使われることが多いので、記者の個人的見解としては、教師から子どもへのそれは、〈精神的虐待〉もしくは〈学校内DV〉と表現したい)。
◇
「子どもが悪いことをしているのに、どうしてその指導の際に、そこまで気を使わなければいけないのか」という反論も予想されるが、ここで考えてみなければいけないのは、〈悪いこと〉と、〈指導〉と、〈気をつかう〉ということの中身だ。
ここで問題にしている〈悪いこと〉の中身は誰かを傷つける行為ではなく、単にその学校の教師たちが作った“校則”なるものにひっかかる、漫画本・アメ・ライター等の“持ち込み(所持)”だ。(注3)
(注3)アメや漫画の「所持」と、たとえば授業中に「アメをなめること、漫画を読むこととは当然、指導は異なる。授業中の行為であっても、「アメをなめること」と「漫画を読むこと」も対応は異なる。「アメ」はにおいなどでまわりに迷惑であるが、「漫画」は静かに読む限りは自己責任の行為である。ライターもまた然り。所持は日本の法律で禁止されていない。たばこを吸ってはじめて「未成年者喫煙防止法」に抵触する。
〈指導〉とは、教師から児童・生徒への働きかけであるが、これは「懲戒」と同義ではなく、「懲戒」は〈指導〉のごく一部である。たとえば、帰りのホームルームでクラス全員に注意を喚起したり助言を与えたりするようなものは、指導の中の「説諭」と呼ぶべきだし、学年集会、全校集会での校長からの言葉も、教師から児童・生徒への働きかけであり、「説諭」に類するものだ。実際には、「懲戒」を与えて(ちらつかせて?)児童・生徒を自らが作り出した“きまり”にしたがわせようという教師の多くは、精神的に未熟で、社会経験が乏しく、教育者としては4流、5流の場合が多いように見受けられる。
教師とは別に、一般社会でのほかの公務員である警察官の職務を考えてみよう。市民生活の安全を守るために、警察官はふだんから市民と多くのかかわりを持つ。派出所で道を聞かれれば道案内をするし、挙動不審な者を見かければ職務質問もする。反原発の官邸前抗議行動のような多くの人が行きかう場所では、ロープを張り誘導・案内もする。安全のために、市民に対して行なう誘導などは「法的根拠」を持つものではなく、あくまでも「お願いする」「協力してもらう」といった類いである。
学校での、児童・生徒の「好ましくない行為(=教育上、指導の必要な行為)」を(1)他人の権利を著しく侵害する行為(2)他人の権利は直ちに侵さないが、放置すればその不利益が本人に及びやすい行為に分ければ、(2)については、警察官が安全のために法的根拠は無い中で現場の判断として「お願いする」「協力してもらう」のと同じレベルの指導、すなわち「説諭」が望ましいはずだ。時には一般人の身柄を拘束する警察官も、時と場合に応じて、市民にソフトで紳士的な働きかけをするのだから、教育に携わる教師であればなおのこと、子どもたちには物腰のていねいな対応をするよう気をつかうことに何の不都合があるだろうか。
ところが、子どもたちを温厚に説諭すべき教師のほうが何を勘違いしているのか、いっぱしの警察官きどりで、被疑者(子どもたち)を取調室(応接室)に呼んで締めあげている光景が、一部の学校で見られるのは極めて残念なことだ。
「カバンの中、見せてみろ!」
「ほかに、あの現場にいたのは誰と誰だ?」
「○○は、おまえもやったと言っているが、どうなんだ?」
「いまここできちんと言えば、試合に出させてやるが、ここで認めなければ、試合の方はわからないぞ!」
子どもが「失敗」を通じて成長するものだとしたら、教師が指導する際には、不必要に子どもたちに精神的圧迫を感じさせることや、否定的言動によって、子どもたちが恐怖や不安を覚えたりするようなことは絶対に避けなくてはならない。
むしろ、子どもたち自身が、部屋から出て来た時に、自らの行為は反省しつつも、晴れやかな気持ちになっていることが、指導の効果として必要だろう。いたずらに子どもたちに不安や恐怖、自責の念を植えつけることは、精神的な暴力であることを、教師は肝に銘ずるべきではないだろうか。
◇
最後に、学校で教師からの理不尽な“指導”に対して疑問を感じている小・中学生諸君に、次の5つを提言しておく。
(01)他人を傷つける行為はあらゆる年代を問わず許されず、場合によっては刑法犯罪として処断されるし、学校内でも「懲戒」を受けることがある。一方で、法令で禁止されていないものの所持は、本来は個人の自由(と責任)に任されている。したがって、その所持について、学校から「協力を求める」程度のお願いをされることはあるかもしれないが、必要以上の叱責その他の強制は、「指導」の名を借りた「精神的虐待」と考えよう。
(02)特定の物の所持と同様、頭髪の長さ、スカート丈の長さ、ズボンの幅なども、学校からの児童・生徒へ協力依頼はできるし、それに応じることが望ましいが、何かの事情で協力できなくても、それは反省文を強制されるようなことではない。もし、そのようなことを強制されたら、「私は今、精神的な虐待・精神的な暴力を受けているのだ」と考えよう。
(03)上記(01)(02)のような精神的虐待は、虐待を加えている側はなかなかそのことを自覚しにくい。したがって、「いじめ」の定義にならって、精神的苦痛を感じている側が、「そのような強制は、精神的虐待である」ということをうまく伝えていこう。
(04)自分たちが感じている精神的苦痛を錦の御旗に、教師や学校を指弾することも好ましいことではない。おだやかに、自分たちの感じる精神的苦痛やつらさを伝え、指導に当たる教師らと対等な立場で、事態の改善を図っていくことが望まれる。教師による、子どもたちのつるし上げも忌むべきであるが、同時にその逆もまた避けなければいけない。
(05)自分の受けた精神的苦痛を、誰かにわかってもらうには、たとえば教師からの言動などを記録しておくことが役に立つ。客観的事実を通して、自分の置かれた立場やつらさをほかの信頼できる人に伝え、事態の改善に努めて行こう。
(了)
《備考》
◎「指導死」シンポジウム ―生徒指導による子どもの自殺 「指導死」を改めて考える―
〔日時〕2012年11月17日(土)13時~16時(開場12:30)
〔会場〕人権ライブラリー(人権教育啓発推進センター)
所在地:東京都港区芝大門2-10-12 KDX芝大門ビル4階
最寄駅:JR「浜松町駅」、地下鉄「芝公園駅」、「大門駅」から徒歩
〔申込先〕4104@2nd-gate.com またはFAX 050-3708-0111
〔費用〕無料
〔主催〕指導死 親の会(03-6304-2970)
◎「第7回・親の知る権利を求めるシンポジウム」
〔日時〕2012年11月24日(土)13時~16時(開場12:30)
〔会場〕人権ライブラリー(人権教育啓発推進センター)
〔費用〕無料、事前申込不要
〔主催〕NPO法人ジェントルハートプロジェクト